ナン・ゴールディンが
見つめてきた人生

極めて個人的で、あくまで政治的な作品を生み続ける写真家との対話

  • インタビュー: Thora Siemsen
  • 画像提供: Nan Goldin, Marian Goodman Gallery

すべてを見てきた。そして、そのほとんどをカメラに収めてきた。にもかかわらず、アーティスト、ナン・ゴールディン(Nan Goldin)は、癖や習慣に陥ることなく、今なお倦むことなく視線を注ぎ続ける。クリントンヒルに建つエレベーターのないアパートの、紫煙が立ちこめる寝室で、映画賞候補作のプロモーション映像やケーブル ニュースを見るとき、ゴールディンはベッドでくつろぐどころか、快適さなどおかまいなしに身を乗り出して熱中する。グランド セントラル駅に行けば、天井を飾る星座をのけぞって見つめ、メトロポリタン美術館では閉館時間まで居座り、夜になってギャラリーから去っていくガイドに、「また明日ね」とふざけて声をかける。彼女は雲愛好家が集うCloud Appreciation Society―雲鑑賞協会の会員であるだけでは飽き足らず、「耳を傾けるすべての人々に、雲の不思議と美を知らせるべく努力する」という、協会の使命を日々、実践するような人だ。

だが、ゴールディンの足は地についている。処方薬によるオピオイド危機に立ち向かうために2017年に自ら政治団体P.A.I.N.(Prescription Addiction Intervention Now)を設立して活動を続けており、メンバーがほぼ週1回のペースで彼女の居間に集まる。運動は、オキシコンチンという薬を製造して売りさばく、大富豪サックラー(Sackler)一族を主要なターゲットにしていて、ローラ・ポイトラス(Laura Poitras)がドキュメンタリーを撮影中だ。ゴールディンはこう説明する。「サックラーは、製薬会社の巨大カルテルよろしくオキシコンチンを売って350億ドルも儲けたの。あいつらは白衣を着た売人よ。薬物中毒というアメリカのスティグマに寄生して肥え太ってる。そして私たちのような薬を飲む側を責めるの。この蔓延はお前たちのせいだって」

彼女の芸術活動へのエネルギーは留まるところを知らない。今年初めには、ロンドンのピカデリーサーカスに近い、マリアン・グッドマン(Marian Goodman)のギャラリーで初めて個展「Sirens」を開催した。昨年秋、シュタイデル社から1993年の2冊目の写真集『The Other Side―ナン・ゴールディン写真集』が内容をより充実させて再出版されたのだが、この写真集の作品の多くがギャラリーの壁を飾った。そして、新たに編集を加えた同じタイトルのスライドショーがギャラリーのビデオルームで上映された。そこにはゴールディンの愛した友たちがいた。ボストンからバンコクまで、華やかにきめたクイーンたち、有名キャバレーのル カルーセル ド パリのキム・ハーロウ(Kim Harlow)、ニューヨークで撮影したグリア・ランクトン(Greer Lankton)。そしてサニー・スーツ(Sunny Suits)とジョーイ・ガブリエル(Joey Gabriel)女史の、新旧の大陸を結ぶ一連の写真が並ぶ。

幾晩かにわたり、彼女の自宅でバックギャモンをしながら、ナンと私は、今の彼女の人生について語り合った。

Cookie at Tin Pan Alley、ニューヨーク、1983年

ソーラ・シームセン(Thora Siemsen)

ナン・ゴールディン(Nan Goldin)

ソーラ・シームセン:今でも夜型ですか?

ナン・ゴールティン:「夜型」の意味が変わっちゃったわね。今じゃ、夜の12時とか、せいぜい2時くらいのことを言うでしょう。私の時代は、一晩中って意味だったのよ。私なんて20年間、朝の5時までベッドに入らなかった。誇張じゃないわよ。今は昼も夜も両方活動してる。子どもの頃は、懐中電灯を持って布団に潜り込んで一晩中、本を読んだものよ。頭の中で脚本を書いててね、夜になるとまた続きを書くの。

何度も観ているお気に入りの映画はあります?

『悲しみは空の彼方に』を100回くらい観てる。デイヴィッド・アームストロング(David Armstrong)の好きな映画だった。私、大泣きしちゃうのよ。私を泣かすのはこの映画くらいのものね。泣けるから観るんだけど。ドラマの『The Wire/ザ ワイヤー』は全話、通しで3回連続で観た。あの世界のほうが私のいる世界より面白いんだもの。『ワンダ』と『オープニング ナイト』も何回も観てる。後はバーバラ・スタンウィック(Barbara Stanwyck)、イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)、シャルロット・ゲンズブール(Charlotte Gainsbourg)が出てるものは何でも。それにヒッチコック(Hitchcock)の作品全部もね。

人と連絡を取り合う手段では、何が好きですか?

しょっちゅうテキストメッセージを送ってる。メールはあまり使わない。電話はめったにかけないわ。

ご自分を友達の歴史の番人だと思います?

まさにそれね。私の作品に登場する人はずいぶん亡くなっちゃったけど、みんな本当に特別だった。あんな人達はもう残ってないわ。ひとつの世代が丸ごと失われてしまったの。あんな人生への向き合い方って、今じゃもうどこにもないわよ、何でも綺麗にまとまっちゃって。まだ生きてる友人たちの中には、新しい「常識」に関係なく暮らしてる人もいる。そういう人たちに会うのは素敵よ。

今ではもう、一部の友達とはドラッグでつながってないわけですが、そういう友達とはどう付き合ってるんですか?

バックギャモンよ。映画を観たり。一緒にドラッグをやらないなら、そうやって友情を育むの。今、友達のほとんどはP.A.I.N.のメンバーだしね。私がドラッグをやらないほうが、周りの人たちにとってはずっとやりやすいでしょ。だから、ある意味、友人との付き合いはがらりと変わったわね。

C in the mirror、バンコク、1992年

Joey in my mirror、ベルリン、1992年

お父さまは90歳代まで、お母さまは100歳過ぎまでお元気だったそうですが、今、大切な人たちの寿命について、どう考えていますか?

悲劇なのは友達がみんな、ほんとに若くして死んだこと。私たち、自分は不死身だとずっと思っていたのに。でも思うんだけど、ある程度そうじゃないと駄目なのよ、生きていくには。死から目を背けるように生きなかったら、いったいどうやって生きていけばいいの? この年になると、すごく死を意識するようになる。こんなに年取って、自分にはもう20年とか、30年しか残されてないなんて信じられない。衝撃よ。クスリをやめるまで私、自分が老いたって知らなかったの。15年も鏡を見なかったから。まだ49歳くらいのつもりでいて、なんで年寄り扱いされるのか理解できなかった。どうにかしなくちゃと思って、鏡を見て納得したわ。年を取ったんだって。でも老いることには慣れなかった。さっきまで若かったのに、いきなり年寄りになったみたいで。それと折り合いをつけることは、ここ2、3年で大変だったことのひとつ。友人たちが生きてたら、同じ年代だったから、衝撃もやわらいだでしょうけど。私、あんたたちの世代にすごく怒ってるのよ。年取った女性の扱い方、ひどいじゃないの。社会的意識とかいろいろ言ってるくせに、年寄りの女をゴミみたいに扱って。男は尊敬されて、洗練されてるとかエレガントだとかって見てもらえるのに、女のほうは、透明人間になるだけじゃなくて―まあそれはそれで気が楽なところもあるけど、人と話したって全然、まともに受け取ってもらえない。私のことを、頭のおかしいババアみたいに扱うのよ。外見が不良なおばあちゃんみたいに見えるからって。朝から晩まで、ちびちびと侮辱され続けるの。50を超えた、たくさんの女性たちと話すと、ほとんどがこういう経験をしてる。はなもひっかけないって人もいるけどね。そんな態度をとれたらいいと思うわ。

末っ子だったんですよね。生まれた順番で子ども時代のあり方に影響はありましたか?

年が一番下だったから、「ベイブ」って呼ばれてたの。末っ子ね。一番上の姉のことがすごく好きだった。彼女と私は結構親密だったんだけど、姉はあまり家にいなかった。しょっちゅう精神病院とか少年院に入れられてたから。私は14の時に養子縁組の業者のところに送られて、それがよかったの。おかげで命拾いした。でも姉は家を出ようとしなくて、あれは本当に悲劇だった。精神状態がいろいろ変わって、世界と感情がすごく同調しちゃう本当に繊細な人の場合、家を出るのは重要なことよ。娘を持つ父親が悪いんだけど、あの時代の女性に対する態度の問題でもあるのね。女の子は怒ることを許されなかった。性的に振舞うことは全面禁止だった。どんなレッテルを貼られても、姉はそんなレッテルとは全然違っていた。彼女はただ生きようとしてただけ。私たちはワシントンD.C.に住んでいたのだけど、姉は逃げて同世代の女性たちと付き合うようにすればよかったのよ。私は逃げて自分の仲間を見つけたわ。でも確かに、生まれた順番は人生ですごく意味を持つと思う。私はわがままだもの。自分はある程度、注目されるものだと思ってる。今だに末っ子気分なのよ。なんというか、この世で自分は「ベイブ」なのよね。

Bruce on top of French Chris、ニューヨーク州ファイヤー島、1979年

友情のせいで恋愛が犠牲になることは?

昔から、ずっと恋愛より友情を大切にしてきたの。誰かと一緒に暮らすと、世界との間にワンクッション置くことになる。たまにしか、性的な関係が欲しいという気持ちにならないしね。友達は恋人よりもっと深い関係になれることもあるのよ。嫉妬とか独占欲といった諸々から解放されるでしょ。友情にもそういうものが絡んでくることはあるけど、恋愛の場合とはまた違う。デイヴィッド[・アームストロング]は人生最高の親友だった。彼のおかげで自分自身を知ることができた。初めて彼に会った時、私、可哀そうなくらい恥ずかしがりで、ささやくようにしか話せなかったのよ。簡単に言えば、彼が私に人格を与えてくれた。というか、私にも人格があることを教えてくれたのね。笑い方を教えてくれたのもあの人。あの人が死んだ後、自分はまた人格を失ったんだと思う。人格の一部をね。友達ってそういうことができるの。自分を映す鏡になってくれる。自分では見えない最高の自分を映す鏡に。友情は私にとって、人生で一番大切な人間関係で、彼らが、私がこの世で築いた家族。私たちは歴史を共有してきた。私は自分の家族とは歴史を共有してないのよ、すごく若いときに離れたから。今も友達はいるけど、もう30年も知ってるかかりつけの医者に、もう、ああいう人たちには二度と出会わないだろうって言われた。あんな人たちは存在しない。あの頃の友情の熱量、すごかったのよ。新しい作品の「Memory Lost」では、80年代の留守番電話のテープを使っていて、そこにはそんな関係が存在した証があるわ。聞いてると私がどれくらい無茶苦茶かわかるけど、でも、そこには愛がある。

友情が終わったあと、どうやって立ち直るんですか?

立ち直れてるのかしら。大切な友人関係がずいぶん終わっちゃったわ。いまだにそのことを嘆いてるのよ。クスリもやめたし、もう一度、やり直すことを夢見たりする。場合によっては、しばらく相手を大嫌いになるんだけど、そのうち元に戻ることもあるし、相手を今でも心から愛してる場合もある。この頃ね、妻と子どもがいたらいいのにと思うのよ。自分がそんな夢を持ってることに気づいてびっくりした。そういう人生を生きてる女性が羨ましい。恋人がいたら、朝、起きて顔を見たい相手がいるじゃない。心を打ち明けられる誰かがいた頃が懐かしいの。私と友人たちの関係は、普通の人には理解できないほど親密だったんだと思う。私が、普通の意味で自分には親友がいないって言うと、その言わんとすることはもっと極端なのかもしれない。私は、身も世もなく人生に友達が必要だったの。こう言うと何だか哀れね(笑)。やだわ。

Kim in rhinestones、パリ、1991年

最近、どれくらいの頻度で写真を撮ってるんですか?

滅多に撮らないし、撮っても、ほんとにひどい写真ばかり。たまに、私の甥みたいに本当に美しい顔を見つけると、カメラを出してくる。でも、写真の出来はよくないの。空を撮るわ。この世でいちばん素晴らしい魔法よ。最高のアート。昔は飛行機に乗るのが怖かったんだけど、写真を撮ってれば、もう怖くないことに気づいたの。いろんなところにカメラを持っていけば、お酒を飲まないようにがんばる以外に、することができるかもね。またやってみようかと思ってる。

本や展覧会ために写真を選ぶとき、だいたい何枚くらいがボツになるんですか?

何百枚も。何千枚かもしれない。アーカイブにはたぶん1万枚くらいスライドが入ってて、全部、見直すには何年もかかりそう。今回の新しい作品のために写真を掘りくり返したんだけど、この作品では写真がひどければひどいほどよかったの。他では絶対に使えなかった写真ばかり。素敵な写真は、その都度、ボツにしたわ。どこにもうまくはまらないから。そうやって、長年の写真人生で最低の作品を集めたスライドショーを作ったわけ。すごく気に入ってる(笑)。

初めて自分が政治に関心がある、というか政治的なアーティストだと自覚したのはいつ頃ですか?

1980年頃かな。タイムズスクエアの、ある女性のところで働いていたの。ティン パン アレーで。すごく政治意識の強い人で、彼女に感化された。働いてたのは1980年から85年までね。彼女、『The Ballad』を見たとたん、私が政治的な人間だとぴんと来たのよ。まだそういうものがジェンダー政治と呼ばれるようになる前に、私の作品にジェンダー政治を見出したの。70年代にクイーンたちと一緒に暮らしていた頃は、自分が政治的なアーティストだとは思ってなかったけど。

昔は飛行機に乗るのが怖かったけど、写真を撮ってれば、怖くないと気づいた

サックラー一族が出資する美術館をターゲットにした初の抗議行動は、作品を使ったものでしたよね。あなた自身の薬物依存を記録した写真と、『アートフォーラム』に寄稿した文章を通した抗議でした。

グループができたのはサム・レック(Sam Roeck)とデイヴィッド・ヴェラスコ(David Velasco)のおかげよ。サムと空港にいた時、『ニューヨーカー』でパトリック・ラーデン・キーフ(Patrick Radden Keefe)の「苦痛の帝国を建設した一族」という記事を読んだの。その記事は、サックラー家がオピオイド危機の火をつけた黒幕の億万長者だと暴露していた。読んで怒り狂ったわ。サックラー一族は、子どもの頃に行ったいろんな美術館に寄付してきた慈善事業家だと、ずっと思ってたんだもの。その『ニューヨーカー』の同じ号に、マーガレット・タルボット(Margaret Talbot)の記事も掲載されていて、エイズ危機のときのACT UPみたいな市民活動家はどこにいるのか、と問いかけていた。私はACT UPを崇拝してたから、自分で何かやろうと決めて、やるなら美術館だと決心したの。そこならサックラー家が耳を貸すんじゃないかと思ったから。そこが彼らの生きがいのはずだもの。それに私も美術館なら影響力があるしね。サムと一緒にブラジルに行ってスピーチしたんだけど、その中でやるって発言したの。6000人くらいがストリーミングで視聴してたから、やるしかなくなったわ。いろいろ思いついても、実行に移さないことって多いでしょ? 戻ってから、サムがデイヴィッドに、彼が『アートフォーラム』の編集長になった最初の号に何か載せることを相談してくれて。私、電話して言ったのよ、私がハイの時のセルフポートレートを掲載しましょうって。冗談のつもりでね。そしたらふたりが、まさにそれを考えてたって言うじゃないの。それで『アートフォーラム』でこれから何をするつもりか宣言することになったのよ。P.A.I.N.はその何週間か後にスタートした。

アーティストや活動家やドラッグ仲間や、そういう友達を巻き込むときは、前もって計画なんか全然しなかったわね。自分でも何をやるつもりかわかってなかったし、うまくいくだろうなんて全然考えてなかったし。友達のダリル・ピンクニー(Darryl Pinckney)に言われて思い出したんだけど、1989年に1回目にドラッグをやめたとき、私、ニューヨークで初めて、エイズをテーマにした大きな展覧会のキュレーションをやったの。今回はドラッグをやめて、P.A.I.N.を始めたってわけ。こういう暗い時代には何かしなきゃだめだと思っていたから、自分の身体で知ってるもの、つまりドラッグに行き着いたのね。初めからACT UPが私たちのモデルだった。第一の目的は、サックラー一族の面子を潰して、大手たばこ会社のときみたいに、彼らの住む世界から排除されるようにすることだった。それは成功して、彼らはもう社交界のイベントにも招待されなくなって、ニューヨークを逃げ出してパームビーチに移ったわ。大規模なオピオイド訴訟の示談に関わった弁護士が、私たちのおかげで世論を動かすために何百万ドルも使わないで済んだって言ってた。私たちの活動で、サックラーの名前がオピオイド危機の代名詞になったから。

美術館への働きかけは、どんなふうにして起きたんですか?

美術館に、サックラーの金を受け取るのをやめるように呼び掛けたの。まず、ナショナル ポートレート ギャラリーに脅しをかけた。サックラー家が持ちかけていた100万ドルの寄付を受け取ったら、次に予定してる回顧展をキャンセルするってね。それで、あの美術館が初めて彼らのお金を拒否したの。次はテートとグッゲンハイム。両方とも私の作品が収蔵されてるから。最後にメトロポリタン美術館。ニューヨークでの初めての抗議行動をやって、デンドゥール神殿の周りのナイル川に薬の瓶を投げ込んだの。グッゲンハイムでは、ドームのてっぺんから、偽の処方箋にサックラー家の人間の極悪な言い草を書いて撒き散らした。ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館には、1100枚も手焼きの陶器タイルを敷いたサックラー コートヤードがあるんだけど、そこでは血染めのお金を撒いて、死体のフリをするダイ インをやったわ。ルーブルではピラミッド前のプールに入っていって、横断幕を掲げた。ルーブルが最初にサックラーの名前を外したの。美術館で唯一ね。今度はタフツ大学が医学部でサックラーの名前を消したところよ。

Pawel’s back、ニューヨーク州イースト ハンプトン、1996年

P.A.I.N.の活動はどうやって運営されてるんですか?

P.A.I.N.は直接行動の力を信じる、声の大きい少人数の集団なの。中心メンバーは10人くらい。何かアクションを計画する時はもっと人が加わるけどね。そういうときはみんな盛り上がるから。サックラー医師が処方したオキシコンチンの偽のラベル付の薬瓶をデザインしたんだけど、それがちょうどACT UPの「Silence=Death」のロゴみたいに、オピオイド危機の象徴になった。去年、ジェフリー・ダイチ(Jeffrey Deitch)のギャラリーで展覧会を開いたときは、オキシコンチンの瓶を200本詰めた、釣り鐘型のガラス容器を置いたの。200っていうのは薬の過剰摂取で1日に死ぬ人の数。そして安全にクスリを使える場所を臨時に設置したの。P.A.I.N.のグループは、オキシコンチンの過剰摂取の影響を中和するナルカンという薬の使い方も訓練を受けてるのよ。ハリー・カレン(Harry Cullen)とミーガン・カプラー(Megan Kapler)がグループのことを取り仕切ってくれてて、ふたりがいなかったら、こうはうまくいってないわ。あの子たちが何でも教えてくれるの。上下関係なんかなくて、本当に順調よ。クリエイティブな仕事はグループ全員の発案だし、上手に協力し合ってやってるわ。

始めた当初、私は請願とかをやりたかったのよ、大昔みたいに(笑)。看板を掲げてデモやったりとか。インターネットを使うことなんて知らなかったからね。メディアのことも知らなかった。だから初めは、メディアは来ないでほしいと思ってたの。怖かったから。でも、今じゃ、みんなでメディアを追いかけまわしてる。一般市民抜きでメディアだけの前でアクションをやろうと言ったメンバーもいるけど、私にとって、市民はやっぱりとても重要だわね。今は、私たち裁判所に行ってるの。以前より政策を焦点に活動してるのよ。何週間か前には州議会でスピーチしてきたわ。アルバニー(のニューヨーク州議会議事堂)に呼ばれて、薬物補助療法について話した。私たちが勝ち取ろうとしてるのはそれなのよ。誰でも薬物補助療法を安いお金で使えるように、刑務所でも利用できるようにすることをね。2、3か月前に、州知事室を封鎖してみんなで逮捕されたんだけど、それは当局の監督下で薬物を摂取できる場所を5か所、ニューヨークで試験的に導入する法案に、知事が署名するのを拒否したからなの。今は倒産裁判所に通ってる。サックラーが目くらましに100億ドルの和解金を出すと言い出したのよ。そのお金だって大勢の犠牲で稼いだ血まみれの金だし、将来またオキシコンチンの売り上げになるに決まってる。だから反対してるの。おまけにあいつらは責任を認めない。闇よね、ほんとに馬鹿にしてる。私たちはVOCAL-NYとかHousing Worksみたいな活動団体や、Truth Pharmの怒れる母親たちのグループと連携していて、他の活動家たちと闘えることが誇らしいわ。

Cross in the Fog、ブリッド=レ=バン、2002年

新版の『The Other Side』の新しい序文で、「私たちの共通の敵は強力だ。私たちは、同じ側に立っているという信頼が必要だ」と書いておられますね。この本が初めて出版されたときと比べて、あなたが味方を作るやり方はどう変わりましたか?

今はあの頃より、縁が切れた人が多いわね。でもサニーとジョーイとは今も付き合いがある。サニーは自分の章を編集したし、ジョーイやジーナ(Gina)、ボストン時代のルームメイトとか、まだ生きてる子たちはみんな、最後の段階で自分の写真を選んだのよ。最初の本が出た当時、人生は本当に楽しかった。あの頃、ジョーイはよく「今ほどあなたが美しいときはもう来ないわよ」って言ったものよ。当時はベルリンでデイヴィッド[・アームストロング]とジョーイと一緒に暮らしてた。人生最高の数年間だった。あの本は歓喜の中から生まれたの。今度の本も作るのは楽しかったけど、もっと政治的な背景がある。あの本をもう一度出そうと思ったのは、あなたたちの世代のためなの。自分たちの歴史を、あなたたちみんなに見てほしいと思った。

Thora Siemsenは、インタビュアーおよびライターとして、ニューヨーク シティで活動している

  • インタビュー: Thora Siemsen
  • 画像提供: Nan Goldin, Marian Goodman Gallery
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: March 06, 2020