都会と田舎の狭間でレム・コールハースが建築を語る

高名なオランダ人建築家が、公共プールへの愛着と地方に見る世界の未来を語る

  • インタビュー: Sven Michaelsen
  • 画像提供: OMA

スウェン・ミヒャエルセン(Sven Michaelsen)は、ミラノのプラダ財団の建物内にあるオフィスに、レム・コールハース(Rem Koolhaas)を訪ねた。コールハースが語る内容に沿って、ふたりのアシスタントがしばしばデジタル画像を見せてくれたが、2時間のインタビューの間、レム・コールハース自身はめったに目を上げることさえなく、A4版の紙に赤いボールペンで迷路やローマ数字や不思議な文字の組み合わせを書き続けた。以下が、そういう状況で交わされた対話である。

Fondazione Prada、ミラノ、写真 Bas Princen、画像提供 Fondazione Prada 冒頭の画像:Rem Koolhaas、写真 Fabrizio Albertini、画像提供 OMA

Fondazione Prada、ミラノ、写真 Bas Princen、画像提供 Fondazione Prada

スウェン・ミヒャエルセン(Sven Michaelsen)

レム・コールハース(Rem Koolhaas)

スウェン・ミヒャエルセン:あなたは現代でもっとも大きな影響力がある建築家です。350人の社員を抱え、4つの大陸で高層ビル、橋、スタジアム、図書館、博物館を建設しておられる。 そういう人生を生きるということは、基本的にどんな体験なのでしょうか?

レム・コールハース:私は、飢餓を体験した世代の一員であることに感謝している。私が生まれた1944年、故郷のロッテルダムはドイツ軍の爆撃で焼け野原にされたままだったし、両親は赤貧の暮らしだった。なんせ、自転車の車輪が、ゴムじゃなくて木だったくらいだ。だから、子ども時代の私は慎ましい贅沢しか考えなかったし、それは今でも変わらない。私の大いなる楽しみのひとつは公共プールへ行くことで、金はかからない。困窮の中で育ったおかげで、欲望と必要を区別できるのはありがたいことだ。精神力は、不要なものを我慢することでも培われる。今は欠乏自体が欠乏しているせいで、現代人は気まぐれで満足することを知らないし、願望を満たすことばかりを追い続けて、実質から遠ざかっている。

どんな子供時代でしたか?

ロッテルダムが復興したのはようやく50年代に入ってからだが、街の雰囲気は非常に明るかった。子供たちは、廃墟の中で、とても自由だった。管理されることはほとんどなかったし、世界を善と悪に分離するカテゴリーはそれよりさらに少なかった。街の生活全体が、流動的で、あらゆるものに浸透していた。私の子供や孫を見てると、そういう体験がまったくないのが可哀相だ。

公共のプールがお好きな理由は?

カール・マルクス(Karl Marx)が提唱した無階級社会のユートピアが現実になる、数少ない場所のひとつだから。階級という境界によって、人が隔てられることがない。あらゆる人が即座に混ざり合う。公共プールへ行けば生きた社会学を体験できる。

10代は、どんな少年でしたか?

15歳までは、たいてい家にいて、余暇の90%は本を読んでいた。ロシア文学の古典、ドイツ文学、フランス文学…読んでも読んでも、読み飽きることがなかった。映画を観るようになってからは、同じ情熱を映画に傾けた。特に戦後のイタリア映画のヒューマニズムと現代性に傾倒して、今に至るまで、パゾリーニ(Pasolini)とアントニオーニ(Antonioni)からどの建築家よりも強い影響を受けている。

父上はジャーナリスト、文筆家、文化方面の公人、父上の父上はフィリップスやシェルやKLMの本社を設計した経歴の持ち主。そういう家系で、特定の職業を期待されるプレッシャーはありましたか?

いや。ハイスクールを卒業した後は映画を勉強したかったが、父がその学校の学長だったのでね。父の下で勉強することだけはなんとしても避けたかったから、24歳になるまではジャーナリストとして働いた。一方で、友達と「1,2,3 グループ」というのを作って、台本を書いていた。連帯感の強いグループだったが、メンバーのふたりは君も知ってるはずだ。 ヤン・デ・ボン(Jan de Bont)は映画監督になって、『スピード』や『ツイスター』を撮ったし、ロビー・ミューラー(Robby Müller)はヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)のカメラマンになった。「1,2,3 グループ」のマニフェストには、メンバー全員が俳優、監督、カメラマン、フィルム編集者を兼任すべしと明記されていたから、インターネットで検索すると、私が俳優をやったときのクリップが出てくることもある。

1974年には6か月間ロサンゼルスへ行って、巨乳女優とセックスの映画で有名だったラス・メイヤー(Russ Meyer)監督の台本を書かれた。

タイトルは『ハリウッド タワー』。70年代中頃という時代を考慮してもなおかつ、あのストーリーはユートピア的だった。金持ちのアラブ人たちがハリウッド映画のアーカイブを買い占めて、デジタルで映画を作れるコンピュータを開発する。そして、もう死んでしまった過去のスターで新しい映画を作るようになる。そのせいで生身の俳優たちが失業したものだから、ニクソン政府が資金を出して、国内で失業中の俳優を全員出演させる映画を作らせる。だが撮影はだんだん手に負えなくなって、映画はいつまでも完成しない。映画に出てくる「ポルノ映画は最後のヒューマニズムだ」という会話、あれはラス・メイヤーに譲歩した部分だ。

ドイツの「シュピーゲル」紙に掲載されたインタビューによると、24歳のときの「閃めき」がきっかけで、建築家になることを決心されたそうですね。

あの時は、映画作りを学びたいという建築家たちに講義をしていたんだが、話しながら、突然思ったんだよ。「建築家の仕事は、私がやってる仕事よりはるかに面白そうじゃないか!」とね。その数週間後に、建築史を研究している友人と一緒にソ連ヘ行く機会があった。1920年代の建築を見て、美術館や私邸で、カジミール・マレーヴィチ(Kasimir Malewitsch)やアレクサンドル・ロトチェンコ(Alexander Rodtschenko)といった前衛芸術家の作品を目にした。帰ってきたときには、建築を学ぶ決心がついていた。

当時のあなたの仲間は、べトコンのためにプレハブの病院を設計することだけが目標だったとか…。

それは誤った情報だ。当時オランダで建築を勉強してる学生は、例外なく、ベトコンを助けることしか頭になかった。だから私は、新しい着想や視点を育てるロンドンのAAAスクール(英国建築協会付属建築学校)へ行ったんだ。AAAスクールは、ベトコンとはほとんど関係なかった。

建築は聖書より長きにわたって人類を形づくると初期の神学者は考えていました。同じご意見ですか?

いや。建築は刺激を与えることはできる。だが、長期間にわたって人間を窮屈な監房に閉じ込めれば、中の人間は威圧されるだけだ。

Fondazione Prada Torre、ミラノ、写真 Bas Princen、画像提供 Fondazione Prada

今は欠乏自体が欠乏しているせいで、現代人は気まぐれで満足することを知らないし、願望を満たすことばかりを追い続けて、実質から遠ざかっている

「貧しい庶民のための画家」とされたベルリンの ハインリッヒ・ツィレ(Heinrich Zille)も、暮らす場所は斧と同じように人を倒せると言いました。

一見もっともらしい表現だが、月並みな感傷は私の趣味ではないのでね。大げさな誇張と精確な内容は、まず一致しない。

失敗に終った建築を目にすると、実際に苦痛を感じますか?

私はかなり寛大だ。ただ、押し付けがましい建築だけは、我慢できない。

ファッション ブランドの Pradaとの関係は、20年以上になりますね。Pradaとコラボレーションを続ける理由は?

1999年のことだが、ミウッチャ・プラダ(Miuccia Prada) とパトリツィオ・ベルテッリ(Patrizio Bertelli)の夫妻が突然訪ねて来て、店舗の新しいコンセプトを作ってくれと頼まれた。当時Pradaは世界的な企業に成長して、イメージを刷新しないと単調になり過ぎると危惧していたんだ。私はちょうど『The Harvard Design School Guide to Shopping』の編集を終えたばかりで、テーマは十分に理解していたから、3か月後にコンセプトを提出した。内容の一部は、店舗で、毎週数時間パフォーマンス アートを提供し、著者による朗読会も行なうこと。Pradaの顧客に、単なる買い物客以上の存在だと感じさせることが重要だった。新しい美学に関心のある人を店舗へ引き寄せたかった。創造的刺激を奨励するプロパガンダと、僕たちは呼んでいたがね。

1999年の当時、ファッションに興味はありましたか?

ああ、17歳のときは、ファッション デザイナーになることも考えた。ただ、オランダという場所が、それには向いてない気がしたのでね。

60年代後半の学生といえば大半が左派でしたが、あなたはスーツとネクタイでセミナーに出席して、一線を画していたという話を聞きました。

君たちのようなジャーナリストたちが、そういう話をでっち上げるんだよ。ジャーナリストには、話を作りたがる不愉快な性癖がある。ハイスクールを卒業後、私はジャーナリストとして『ハグセ ポスト』というにオランダの週刊誌に記事を書いていた。ヒッピー以外の人がそうであったように、スーツを着て細いネクタイをしていた。それが真実だ。だがそれでも、社会主義者であることに変わりはなかった。スーツを着なくなったのは、1968年に建築を勉強するようになってからだ。

最近では、想像を絶するほど富裕な人たちが新しい美術館や大規模な展示に資金を出すケースが、どんどん増えています。ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)、フランソワ・ピノー(Francois Pinault)、先ほどの話にも出たミウッチャ・プラダといった億万長者は、現代のメディチ…

そこまで! 君が言ってることのほぼすべてに僕は異議を唱えると、ちゃんと記録にとってくれよ。もはやメディチ家は存在しないし、15世紀や18世紀の富裕階級に匹敵するものは、現代にはほぼ皆無だ。今君が挙げた人たちについても同じ。彼らに共通点はない。単純な誇張や歪曲に貢献する気はないね。

Pradaのようなファッション帝国と仕事をする場合、どんな苦労やリスクがありますか?

Pradaとは、これまでに、大胆かつ実験的なプロジェクトを10以上もやってきた。だから、否定的なことを挙げるのは理不尽というものだろう。ミウッチャとパトリツィオは、ふたりとも、模範的な顧客だ。大きな視野から考えて、御託を並べず、ストレートに核心を突く。右折か左折のどちらか。中間でぐずぐずすることはない。彼らのイタリア気質は、私のオランダ的直截やカルビン主義的独立心と親和性がある。

Pradaでの一番新しい仕事は、「フロントパック」という名前のバックパックですね。

フロントパックは、体の前に置くところが新しい。君も経験があるだろうが、空港でチェックインの行列に並んでいるとき、パスポートやラップトップが必要になるとする。ところが、背中のバックパックに入っていると、取り出すのが一苦労だ。その点、フロントパックなら何の問題もない。もうひとつ、よくぶつかるのもバックパックの欠点だ。飛行機で通路側の座席に坐っていると、しょっちゅう頭にバックパックをぶつけられる。誰も後ろに目が付いていないからだが、フロントパックはこの問題も解消する。

フロントパックのアイデアが浮かんだ瞬間を覚えていますか?

秋シーズン用に何か考えてほしいと依頼されて、5秒後だった。紙に赤いポールペンでデザインをスケッチして、さほど変更も話し合いもなく、そのまま通った。次から次へと指示が変わることもないし、果たしない会議が続くこともない。そういう具合に効率的だから、Pradaとのコラボレーションは非常に楽しい。フロントパックに関する限り、ミウッチャとは一度も顔を合わせてさえない。ボイス メモだけで事が足りた。これは自慢じゃない。私がPradaの仕事を引き受ける理由を、君に説明しているだけだ。私はあの会社の歴史も伝統も知っているから、自分に何が期待されているのかを理解するのは難しくない。

ロゴが目につく服やアクセサリーは、着ない主義ですか?

そう。その点については、君は正しい。

もしあなたに決定権があったら、フロントパックに白くプリントされているPradaのロゴも無しにしますか?

いや、そもそもあれをつけたのは私だ。よく見たかね?

ロゴのタイポグラフィが、何十年にもわたってロシア共産党の宣伝機関だった『プラウダ』紙のロゴ「 Pravda」に似ています。あれは内輪のジョークですか?

君が気付いたのなら、もう内輪のジョークではないだろう。

Fondazione Prada Torre、ミラノ、写真 Bas Princen、画像提供 Fondazione Prada

ロンドン生活が25年になりますね。ロンドンでは、今後数年に、250前後の高層ビルが建設される予定ですが、全体的な美観を管理している責任者はいるのですか?

いない。世界のほぼ全部が独裁的な市場経済に従うことを選んだ。したがって、都市設計者が、今も昔と同じように規則で都市の外観を左右できると考えるのは、幻想だ。資本主義に権威を奪われて、都市設計という役職はすっかり意味を持たなくなった。都市に一貫した外観を与えようと奮闘した最後のヒーローは、ベルリン都市計画の責任者だった ハンス・スティマン(Hans Stimmann)だが、彼も2006年に引退した。だからと言って、直ちに西欧世界が崩壊するとは思わないがね。これまで73年の人生で、さまざまな政治情勢を多すぎるほど見てきたから、現在の情勢が永遠に続くとも思わない。現在の都市設計は放任姿勢に支配されているが、遅かれ早かれ、それもまた反対の方向へ振り子が動くだろう。住民にも愛想をつかされるだろうし、地球の温暖化という問題からも、根本的な変革を実践せざるを得なくなる。

ルイ14世は、指を鳴らすだけで、建物を動かすことができました。まるでレゴみたいに簡単に。 そういう絶対的な専制の終焉を秘かに嘆く気持ちが、建築家にはありますか?

君は、ルイ14世の下で働いた建築家たちの回顧録を読んだことがあるかね? ロレンツォ・ベルニーニ(Lorenzo Bernini)の自叙伝を読んでみるといい。ベルニーニはローマで生まれて、建築と彫刻で有名になったが、1665年、ルーブルの増築について相談したいと、ルイ14世に呼ばれてパリへ行った。太陽王ルイ14世の記念像も依頼された。だが結局、果てしなく続く屈辱と完璧な失望を味わった。絶対的な権力をもった建築主を欲しがる建築家など、いるはずがない。心の底の、そのまた一番闇の深い片隅にさえ、そんな考えはあり得ない。最初に権力者の犠牲になるのは、自分達だ。

ベルニーニが味わった屈辱で、一番驚かされるのは?

ルイ14世の答えを貰うのに、12年待たされたことがあった。ちょっと想像してみなさい。12年だぞ!

CCTV、北京、写真 Philippe Ruault、画像提供 OMA

CCTV、北京、写真 Philippe Ruault、画像提供 OMA

あなたの作品で一番有名なのは、北京に建築した中国国営テレビ局CCTVの本社です。高さ237メートルのビルで、8,000人の局員が働いている。落成式が行なわれた2012年の時点では、ペンタゴンに次いで、世界で2番目に大きいビルでしたが、神の如き創造者になった気分でしたか?

知っていると思うが、神は世界を6日で創造した。その間、一滴の汗も流さなかった。一方の私は、建設作業を監督するために、10年間、毎月1回は北京へ飛んだ。さっと手を振るだけで宇宙に素晴らしい創造物を出現させるデミウルゴスの気分になったことは、建築家として、一秒たりとももない。

中国のような全体主義国で仕事をするときの利点は?

中国は、毎日、新生している。決定権を握っているのは30代から40年代の若手で、あっという間にイエスかノーの意見をまとめる。ヨーロッパやアメリカで意思決定をするのは50代から70代。そういう年齢になると、リスクを嫌う。委員会を開いて、決定の責任をできるだけ多くの人数に分散しようとする。いざ責任のなすり合いが始まったら、指を突きつける相手が半ダースもいる始末だ。

多くの作曲家は、時が経つと自分の作品を楽しめなくなる残酷な運命を背負っていますが、あなたと作品の関係もそれと同じですか?

自分たちが作った建物を前にして、私はよくやったと自分を褒めることもしないし、過ちばかりに目を向けるマゾヒストにもならない。建設した建物とのあいだには非常に大きな距離感があって、誰か知らない建築家が作った作品を眺めているような気がするが、たいていの場合、目に映るものに満足している。

恥だと感じる作品はありますか?

イエスと答えるほうが喜ばれるんだろうが、私の答えはノーだ。

同じく建築家のフランク・ゲーリー(Frank Gehry)は、MRI装置に入っていた時の45分でルイ・ヴィトン美術館の着想を得たそうですが、話に聞くところでは、あなたのインスピレーションが湧く場所は、飛行機の座席A1だとか。本当ですか?

本当だ。それ以外にも、いい仕事が出来る場所はいくつかあるがね。誰にも何にも邪魔されないことが不可欠だ。だが、ある瞬間の天才的な閃きから素晴らしい建築が生まれる、とは考えていない。私の場合、先ずスタッフと意見を出し合うブレインストーミングで1日が始まる。その後インタビューを受けて、昼頃に格安航空会社の便に乗って、目的地に着いたらミニバンで移動する。そういう多種多様な体験が、最後に、アイデアの形として現れる。

CCTVの、輪を折り曲げたような2つのタワーの構想が生まれた日は、一体どんな1日だったのですか?

インターネットで検索してみたまえ。あの形状を思い付いたのは自分だと確信している私の部下が、低く見積もっても8人はいるだろう。そして、全員が正しい! 混乱は、建築事務所の現実を忠実に映し出しているに過ぎない。デザイン会議では、アイデアを出し合って、一番いい提案にどんどん手を加えていく。その過程で、参加者の多くが、自分こそビジョンの決定に貢献したと思い込む。建築とは集合的な業績、それが真実だ。絞り込んだ形状、そして建物エネルギーのバランスや政治的な強制力、どれもが同じ程度に重要だ。

何もアイデアが浮かばないときは、どうするのですか?

作家には書けない時期があるそうだが、建築家でそれに相当するものは聞いたことがない。なんせ、後ろで機械が回りながら待ち構えているのだから、何かを出せなくてはならない。何もありません、では済まない。ゾンビになったり、悩めるハムレットみたいなことをやっていたら、すぐに仕事は来なくなる。建築は計画的な作業だ。

CCTV、北京、写真 Jim Gourley、画像提供 OMA

1978年に代表作『Delirious New York – 錯乱のニューヨーク』を出版されて以来、あなたは未来を見通す大都市生活の擁護者と考えられています。ところが来年は、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で「Countryside: Future of the World – 地方:世界の未来」と題した展示を開催されます。あなたのようなアーバニストを、突然、田園生活に向かわせた理由は?

私は、25年前から、スイスのエンガディン地方の小さな村で休暇を過ごすことにしている。6~7年前、その地域一帯が着実に変わったことに気が付いた。それまでは気に留めていなかったが、村が大きくなったにもかかわらず、地元の住民をめっきり見かけなくなっていた。いるのはフランクフルトからやってきた原子核物理学者とか、ミラノのデザイナーの別荘を手入れしているベトナム人。牛も姿を消したから、もう牛の糞の臭いもしなくなった。牛と一緒に、古い農場も消えた。代わりに、贅沢なミニマリズムというか、奇妙に二元的な要素を組み合わせたな別荘やアパートが出現した。ほとんどの期間、新築の建物は無人で、休暇のシーズンだけ爆発的に人口が増える。それで、都市生活を耐えうるものにするために、地球がどんどんレイプされていることに僕は気付いた。この10~15年で、地方は都市よりはるかに急速かつ急激に変わってきた。そういう変質に伴う画期的な意味合いは、まったく浪費されている。盲点になっている理由は、建築家の注意の90%が都市計画とそれに関連した事項に向けられるからだ。グッゲンハイムでの展示では、この点の変革を促す。

メディア向けの資料には、建築の未来は地方にあると書かれています。どういう経緯で、あのテーゼに辿り着いたのですか?

職場の自動化は地方へ移動しつつある。テスラは50億ドルを投じて、現在、ネバダ州にギガファクトリーを建設中だ。完成すれば、床面積1平方キロメートルという世界最大の工場になるだろう。だが、そこで働く作業員はほんの一握りだ。そういう工場に対して、建築の観点から取り組む価値が果たしてあるだろうか? 自動化されたサーバー ファームや出荷センターや製造工場には、どんな外観がふさわしいのか? ロボットが作業する場所に窓は必要か? 使いやすさを考慮する必要があるか? テクノロジーは光速で進歩しつつある反面、建築家の創意はまったくと言っていいほど進化していない。未だに片足を古の時代に残して、過去の戦を闘い続けている。そんな状態だから、遅かれ早かれ時代との繋がりを失うだろう。現代を生きるうえで、過去は卑小すぎる。

ドキュメンタリー『REM – レム』を撮影するために、ご子息のトマスは、4年間、あなたの出張を追って世界中を飛び回りました。後に、あなたを後ろや横から撮影した場面が非常に多い理由を尋ねられて、「父は歩くのが速いし、いつも人と会う約束が待っています。わざわざ待ってはくれませんから、どうしても後ろから追いかけて、背中を撮影する羽目になるのです」と説明しています。あなたは、どんどん仕事を片付けていないと気が済まない仕事中毒ですか?

いや、私の考えは単純明快。じっくり取り組む時間を確保するために、急ぐ。移動に要する時間を節約するから、専念する時間が持てる。私を何らかの言葉で定義するとしたら、集中力こそ私の特質だ。

フランク・ゲーリーは「便所があるのはアートじゃない、と言う人がいる。僕が作る建物には便所があるから、僕は建築家と呼ばれるほうがいい」と言いました。彼と同意見ですか、それとも芸術家と思われるほうがいいですか?

そういう愚問に付き合う気はない。

なぜですか?

芸術家と建築家は明白に違うからだ。昨年、私はフランチェスコ・ストッキ(Francesco Stocchi)と一緒に、ミラノで開かれたソル・ルウィット(Sol LeWitt)作品展をキュレーションした。ルウィットの作品を扱えるのは私にとって名誉なことだと、のっけからギャラリーは噛んで含めるように私に言い聞かせた。作品の搬入係は、ありがたい聖人の遺品を運んでるような様子だった。建築の世界には、そういう現象に匹敵するものはない。芸術家は、誰の後ろ盾もなく、自分独りでさまざまな決断を下せるし、また、そうしなくてはならない。我々建築家の場合は、窓を10センチ大きくするだけでも、建築主の許可が要る。

ヘルツォーク & ド・ムーロンが設計したハンブルクのエルプフィルハーモニーは、ドイツの建築史に残る最大級の成功です。ご自分が建築した建物から美しさを感じて欲しいですか?

それは、私の最大の目標ではない。美は努力して作れるものではない。綿密に計画した結果ではなく、ほぼ偶然に生まれる。それに、私が美しいと感じるものは、必ずしも、感覚の印象とは結び付かない。東ドイツのプレハブの建物でも、平等という目標を象徴している点で、美しいと思う。

「建築家は金持ちにはならない。ノーマン・フォスター(Norman Foster)やフランク・ゲーリーは儲かっているかもしれないが、私はそうではない。建築家は中世のギルドと同じで、建築費からごく一部を受け取るだけだ。どれだけ名が知れていようと、この基本は変わらない」とおっしゃっていますね。自分は金持ちではないと、本気で思っているのですか?

私の事務所でプロトタイプを設計しても、実際の建設に至らないことが多々ある。つまり、懸命に働いて問題を解消する方法を探し出しても、学んだ教訓を次のプロジェクトに活かす代わりに、毎回またゼロからやり直しだ。経済的にはこれほど馬鹿げたことはないが、不平を言っているわけでない。いつも決まりきったことの繰り返しだったら、気が滅入る。

北京のCCTVタワーの建設費は約100万ユーロ。あのプロジェクトで、いくら儲かりましたか?

あれは赤字だ。先ず第一に、中国人は建築に金をかけない。大規模な火災のせいで、工期が4年長引いたこともある。建物のアイデアを練り始める前には、中国という国をよく知って理解するために、数ヶ月中国で生活してみた。自転車に乗って、屋台で食べて、公共プールへ行った。そういう段階は重要だ。例えば、人との距離の取り方はそれぞれの国で違う。適切な距離感が考慮されていないと、居心地の悪い建物になってしまう。そして、この種のリサーチに要する費用は請求できない。

自分の家さえ持てないなんて、どの程度本心ですか?

自分で建てたレム・コールハース ビルになんて、特に住みたいとも思わない。自分が建築主になったら、建築家として建築主と駆け引きするのが懐かしくなるだろう。自分が住む場所だったら、いろいろなテーマを盛り込みたい。

建築家が自分の設計した建物に住まざるをえなかったら、都市はもっといい場所になるでしょう。これまでに住んだ家は、どれも100年以上の古い建物ばかりだというのは、本当ですか?

いかにもタブロイド的な質問だが、一応答えよう。今のアムステルダムの家は、1924年の建築だ。同じ時期に建てられたほかの建物と何ら変わらない。誰一人、立ち止まって眺めることもない。

Qatar National Library、ドーハ、写真 Delfino Sisto Legnani and Marco Capeletti、画像提供 OMA

Garage Museum of Contemporary Art、モスクワ、画像提供 OMA

建築とは集合的な業績、それが真実だ。絞り込んだ形状、そして建物エネルギーのバランスや政治的な強制力、どれもが同じ程度に重要だ

あなたの設計の95%がゴミ箱行きという話は?

80%程度だ。日々の屈辱と挫折、それが私の職業に隠された最大の秘密だ。コンペに負ける、設計提案の電話をかけて、マイクを切られたラジオの番組ホスト並みの気分を味わう…それが日常茶飯事だから、もし割りの良い稼ぎをしたかったら、民間の建築主に限定することだな。

後24時間しか命がないとしたら、どの建物で最期を迎えますか?

サルデーニャとコルシカの間の島に小屋を持っている。1か月おきに10日程度を過ごしてる場所だがね、最期はそこで迎えたい。

小屋というのは、別荘を控えめに...

私が小屋と呼んだら、それは小屋だ。ドアがひとつに、窓がひとつ。

Garage Museum of Contemporary Art、モスクワ、写真 Timur Shabaev、画像提供 OMA

  • インタビュー: Sven Michaelsen
  • 画像提供: OMA