美しき人々の肖像
母国を離れた
アフリカ人の写真に見る
気概と時代背景
- 文: Oluremi C. Onabanjo
- 画像/写真提供: Galerie Clémentine de la Féronnière、Autograph ABP、October Gallery、Eric Gyamfi、Moses Sumney

1959年8月22日、ミス・ベアトリス・オーリンズ=ハーディング(Beatrice Orleans-Harding)はミセス・ベアトリス・ダンカン(Beatrice Duncan)になった。結婚式には遅刻したが、たっぷりのサテンとレースに包まれ花束を抱いている姿は輝いて、見るからに幸せそうだ。夫になったジョン・ウィリー・クワミナ・ダンカン(John Willie Kwamina Duncan)は、颯爽とした三つ揃いのスーツでひときわ目立つ。花嫁は小柄で細身だが、花婿は聳えるように背が高く、逞しい。その日は1日中、ふたりの顔から満ち足りた笑顔が消えることはなかった。美しいカップルだった。
親類縁者、近所の人たち、職場の同僚、友人たちが一堂に会した結婚式で、どうしても必要な純白のドレス、黒いスーツ、式を執り行なう司祭、花、そして婚礼写真家は、カップルがこの日のために蓄えた支度金で賄った。1枚の写真には、ロンドンのウーリッチ地区にある聖パトリック教会の前階段に立ち、自信に溢れて将来へ足を踏み出すベアトリスとクワミナが写っている。ふたりの両脇には、ジョンの兄弟のエコウ(Ekow)とジョズバート(Josbert)、ジョズバートの婚約者のエレイン・バックル(Elaine Buckle)。被写体と構図を十分に考慮して撮影されたこの写真には、はっきりと異なる多様性を理解しようと懸命だった街で、共に人生を歩み出す誕生したばかりの家族が表れている。アフリカ大陸、カリブ海諸国、インドからやって来た人々のコミュニティは、自らの存在と他のコミュニティとの相関性を主張しつつ、20世紀の「黒い英国」を形づくっていったのだ。
ふたりがガーナからナイジェリア経由でロンドンへ移民したのは、それほど前のことではなかった。イバダン大学から奨学金を得たクワミナは、技術専門学校のウールリッチ ポリテクニックでエンジニアリングを専攻することになっていたし、ベアトリスは整形外科看護師としてアスコットで働いていた。恋人として付き合った期間は5年。そのうち2年は、毎日手書きの文通を交わしていたというから、2021年の現在から考えると、うっとりすると同時にいささか理解に苦しむところもある。そもそもの出会いは、西アフリカの学生団体が毎年催す歓迎会だった。たくさんの参加者がいる会場でクワミナの視線はベアトリスに釘付けになり、歩み寄って宣言した。「僕は、卒業したらすぐに君と結婚する」。最高にロマンチックなプロポーズとは言い難いが、驚くほど正確な予言だったことは間違いない。
同様の単純明快さは、晴れの日の服選びにも歴然と表れた。ベアトリスがシルエットや布地や細部に何か月も頭を悩ませた反面、クワミナは紳士服店の「Burtons」へ一度足を運んだだけで、控え目でエレガントなデザインのスーツに決めた。ピンストライプのブラック スーツに、花嫁の花束に合わせたアメジスト色のポケットチーフを覗かせる。スーツのジャケットは日頃着ていたウール地のジャケットとほぼ変わらず、シングルブレストで、シャープなラインがショルダーを強調するデザインだ。いつも自分で完璧にアイロンをかけたホワイトのボタンダウンのシャツに、大切にしていた何本かのシルクのタイを交代でするのが、当時のクワミナの服装だった。
だがこのスーツは特別だった。クワミナは「愛を運んできた服だと思って」、とても丁寧に扱ったとベアトリスは言う。自分の結婚式以後に手を通したのは、弟のジョズバートがエレインと結婚したときの一度だけ。あちこち転勤する生活を送るうち、お役所仕事にありがちなミスで、ベアトリスのウェディング ドレスはスーツケースに入ったまま、ベルトコンベヤでいずことも知れぬ場所へ運び去られ、二度と戻らなかった。しかし、ふたりがカナダ、アメリカ、ナイジェリア、コンゴ ブラザビル、ケニア、ザンビア、ジンバブエ、シエラ レオネ、そして最後にナイジェリアと引っ越した60年の間、クワミナのスーツは常にクロゼットの奥に吊るされ、時折取り出してドライクリーニングに出された。
2019年11月21日に息を引き取る数か月前、クワミナはウェディング スーツを着せて埋葬してほしいと書き残した。「身なりを整えて神の前に立つ」のは多くの人に共通した心情だが、クワミナの遺言はとても視覚的に私の胸を打った。蒸し暑いラゴスの空気の中で棺を見下ろしているとき、私はクワミナの結婚式の写真のことばかり考えていた。クワミナのスーツ以外に、祖父母にとって特別だった1959年のあの日の名残りは、写真しか残っていなかった。自分の死後を予見して、祖父は結婚式の写真と死のあいだに視覚の繋がりを作り出し、残される者の記憶にしっかりとイメージを刻み込んだのだった。幸福なときの証は、彼の死を悼む者に慰めを与えてくれた。イメージの働きを知っていた祖父は、愛に包まれて安置された姿を記憶に残そうとしたのだ。
大音量のブラスバンドと棺を担ぐ人々の後ろに続き、涙が伝う顔と汗の滲む額に囲まれて、私は祖父の結婚式の写真が伝えた事実を頭から払いのけることができなかった。あの結婚式は、祖父にとって大きな意味があっただけでなく、祖父と同じ西アフリカ出身の世代に連なる役割を示していた。彼らは、立派な身なりという視覚的な政治手段を守り抜いて、植民地的偏見に立ち向かった人々だ。敏捷な肉体を社会での敏捷性を確保する手段と考え、植民地体制を取り消すことが日常生活の体験に精気を吹き込んだ人々だ。ヨーロッパの教育制度の恩恵を受けた後、母国へ戻って植民地後の可能性を追求した人々だ。

上の画像:ジェームス・バーナー撮影。バーナーの従妹の結婚式。1964年、ロンドン。協力 Galerie Clémentine de la Féronnière。冒頭の画像:エリック・ジャムフィ撮影。『Fixing the Shadow: Julius and I』シリーズの作品。2018年。
彼らの結婚式は、ウールリッチからキルバーンまで、ロンドンのあちこちで挙げられた。厳格で陰気な街のなかで繰り広げられるお洒落で華やいだセレモニーは、必ず、手配した婚礼写真家に撮影された。ガーナ出身の若者だったジェームス・バーナー(James Barnor)は、そんな写真家のひとりとして、婚礼の日のさまざまな場面をフィルムに焼き付けた。苦労して車から出ようとする花嫁と一緒に、柔らかなチュールの雲が溢れ出ている。そして黄褐色のストッキング、シアな白い手袋。路面に下ろされた尖った爪先の白いスティレット ヒールは、ブライドメイドとお揃いだ。被写体相互の関係に、人種、階級、ジェンダーの持つ意味合いが表れている。幸せなカップルのために披露宴に参加して、一緒にカメラの前に立った満面の笑顔の友人たち。晴れの日のパーティに雇われた運転手。すべてに、期せずして生まれた繋がりと緊張が見える。重要なのは、美術史家および評論家のコベナ・マーサー(Kobena Mercer)が論じたように、「バーナーの写真は、アフリカが決して地理上の境界線に閉じ込められた静的な存在ではなく、常に離散の側面があったことを示唆している」ことだ。
バーナーは、すでにガーナの首都アクラでキャリアを築いた後、クワミナとベアトリスが結婚した3か月後に初めてロンドンへやって来た。「ガーナが英国から独立して2年後だった。どうしても自分の目で『本国』を見て、もっと色んなことを知って学んで、写真の知識を増やしたいという気持ちに駆られたんだ。その頃、私の『Ever Young Studio』はもうアクラで成功していたから、必ずしも金儲けが目的ではなかった」とバーナーは語っている。事実、バーナーが50年代初期にジェームズタウンで設立した写真スタジオは、ガーナの社会で特別な役割を担っていた。バーナーによると、「私が最初に記憶している写真家は警察の撮影係だ。事故や事件があると、警察から撮影係がやって来て、現場全体を取り仕切っているみたいに振る舞ったもんだ。他にも写真家はいた。正式な婚礼写真家とか、大きな箱型のカメラを抱えてはあちこちへ行って写真を撮るアマチュアの写真家とか」。バーナーにとって、ポートレート写真は人々をフィルム上に再現する完璧な手段だった。人生の大事な出来事が記録されるのだから、記念の集まりに出席する前には、自分の写真写りを知っておく必要があった。「結婚式へ出席するとなったら、スタジオへ行って写真を撮ってもらうのが欠かせない約束事だった」
西アフリカのポートレート写真は、今や評判になり過ぎたきらいのあるセイドゥ・ケイタ(Seydou Keïta)のスタジオ ポートレートやマリック・シディベ(Malick Sidibé)の臨場感あふれるスナップ写真が代名詞になったが、バーナーはポートレート以外の分野でも活動した。1950年にアクラで誕生した日刊新聞『Daily Graphic』でガーナ初の写真記者となり、「黒い閃光」の異名をとったスーパー フェザー級チャンピオンのボクサー、ロイ・アンクラ(Roy Ankrah)から、ガーナ初代の首相および大統領となったクワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah)まで、当時のアクラの社会で極めて重要な有名人や公人も撮影した。
身振りや体の表現に繊細なバーナーは、エンクルマの軽やかな瞬間を捉える才があった。ガーナに伝わるケンテ織りの豪奢な民族衣装で英国君主を迎えるなど、イメージを戦略的に演出したことで知られる政治家のエンクルマが、バーナーのレンズを通ると、力強さと活力を発散した。例えば、ダブルブレストのスーツに革靴という姿で、センター フィールドからフットボールを蹴り出した瞬間の写真がある。動いた右足はぼやけているが、笑顔は鮮明だ。右足以外の体は直立している。政治的な理由で逮捕され、刑期を終えて刑務所から出てきた人々に贈られた支援と激励の「プリズン グラデュエーション キャップ」は微動だにした様子もなく、モノクロの写真では、アクラの雲ひとつない空にほとんど溶け込んでいる。

ジェームス・バーナー撮影。『Drum』のカバー ガールのひとり、アーリン・イブレク。1966年頃、ロンドンのトラファルガー広場。協力 October Gallery(ロンドン)。
植民地時代の本国だった英国、いわゆる「メトロポール」での作品群は、政治、文化、スタイルが一貫したテーマだ。『Drum』に掲載された写真には、それがもっとも顕著に表現されていた。『Drum』はジム・ベイリー(Jim Bailey)が南アフリカで創設した反アパルトヘイト誌で、アーネスト・コール(Ernest Cole)、ピーター・マグバネ(Peter Magubane)、ボブ・ゴサニ(Bob Gosani)など、南アフリカの写真家も参加していた。バーナーの作品がロンドンで暖かく迎えられたのは、『Drum』との繋がりがあったからだ。「当時の私は、英国ではとるに足らない無名の存在だった。しかしガーナにいた50年代に『Drum』に協力していたおかげで、社会に出ることができた。『Drum』に関係していたからこそ、あらゆる扉が開いて、ロンドンで写真家としてやっていくことができた」
この時期のバーナーの作品は、活動中のロンドンと休息しているロンドンを背景に、中距離から多様な被写体を撮影したものが多い。特に『Drum』の表紙を飾ったセルビー・トンプソン(Selby Thompson)、アーリン・イブレク(Erlin Ibrek)、マリー・ハロウィ(Marie Hallowi)らの溌剌としたイメージは、母国を離れたアフリカ人の華やかな魅力を象徴するものになった。ラジオ放送に君臨した伝説的プレゼンターのマイク・エガン(Mike Eghan)は、カメラの真正面で、ピカデリー サーカスの階段を下りてくるところだ。細く長いブラックのネクタイが上半身を二等分し、看板やネオンの文字に埋め尽くされた光景の前で両腕を広げている。エネルギッシュでダイナミックなエガンは、自分のものと言えるはずの街のひとつで、自らの権利を主張するガーナ系英国人だ。
ひとつの場所に腰を落ち着けることのなかったバーナーは70年代にガーナへ帰り、国内初のカラー写真現像ラボを設立した。最終的には90年代にロンドンへ戻り、現在もロンドンで暮らしている。キュレーター、美術史家のルネ・ムッサイ(Renée Mussai)が解説しているように、長年のキャリアで蓄積されたバーナーの作品は、「街頭やスタジオでのポートレート写真によって過渡期の社会を描写した稀有なポートフォリオであり、独立への動きが急速に高まったサハラ以南のアフリカ国家と多文化メトロポリスに変貌しつつあるロンドンを映し出すイメージ群」だ。作品に捉えられた相対関係もさることながら、特に2021年10月22日までギャラリーSerpentineで開催中の回顧展『Accra/London』を訪れると、あちこちと活動の舞台を変えたバーナーの機動性にも興味をひかれる。

ジェームス・バーナー撮影。マイク・エガン。1967年、ロンドンのピカデリー サーカス。協力 Autograph ABP。
マーサーの鋭い指摘のとおり、バーナーがそれらのイメージ群を築いたことで、「もともとは家族のあいだで交換したり新聞の締め切りに間に合った後は処分されるはずだった写真が、アートとしてギャラリーの壁面に展示され、注目に値する美学の対象として、また新たな世界の発言を示すものとして、それまでにない価値を与えられた」。この評論を読む限り、写真の一分野、特に西アフリカのポートレート写真という分野を確立するには、明らかに、それらの写真が置かれる文脈が極めて重要だと思われる。では、写真撮影にはどんな利害関係が関わっているか? 写真を入手する場合や掲載する場合とは、どう違うのか? 写真家と写真を受けとった被写体の世代にとって、どんな意味があるのか? 答えを出す代わりに、私は別の視点を提案したい。では、写真とサウンドが合体した抒情豊かなスタジオ アルバム『Aromanticism』のカバーが誕生した経緯を見ていこう。
2012年、写真家のエリック・ジャムフィ(Eric Gyamfi)とミュージシャンのモーゼス・サムニー(Moses Sumney)は、共通の友人を介してアクラで知り合った。物理的な面でも考え方の面でもすぐに意気投合したふたりのガーナ青年は、一緒に写真を撮り始めた。被写体と撮影する側の双方による、即興の実験だ。正確にいつから始めたのかはどちらも覚えていないが、撮影に遊びの要素が重要だったことは口を揃えて証言する。サムニーは毎年アクラへ戻り、ふたりは一緒に考えたり、ブラブラしたり、写真を撮ったりして時を過ごした。サムニーは笑いながら、私にこう語った。「エリックは僕が見たこともないものを見せてくれるんだ。ビョーク(Björk)のミュージック ビデオとかさ。エリックの家で、エリックの古いラップトップを飽かず眺めたもんさ。ふたりでいると気分がよかった。アクラにいながら、当たり前のことに挑戦して、目の前のことを超越して考えられる気がしたよ」
「予想外」に対して開かれた感覚こそ、ふたりが7年以上にわたって開拓した視覚言語の構築に欠かせない鍵だった。ふたりが撮影する写真は、ひとつだけの目標ではなく、有機的な関係の形態が基盤であり、何よりも遊びと実験の流儀が優先する。ジャムフィによると、「僕たちの共同作業は、発見、発掘、偶発的な機会次第のところが多分にある。結果を左右しようとする欲求を捨てて、その他のさまざまな要素を受け容れるんだ。そうすることで、イメージの中で主張できるチャンスを持たなかったものがイメージの一部になる。言うなれば、自由形式だな」。この間サムニーは『Aromanticism』のレコーディングを始め、アルバム カバーを撮影する2017年の3月にはロンドンでのツアーを中断してアクラへ向かい、撮影に数日を費やした。「エリックと僕が互いをよく知っていたこともそうだけど、その頃にはもう僕たちの視覚言語が出来上がっていたことに大きな意味があった。もっと良かったのは、その言語の大半を世界が知らなかったこと、僕たちふたりだけの言語だったことだ」とサムニーは言う。
このときの撮影から誕生した写真は、究極の「反ポートレート写真」と呼べるかもしれない。何もない真っ白な壁の前で、カメラに背を向け、サムニーの全身は苦も無く宙吊りになっているように見える。上半身は裸で、ブーツを履いた足から50センチほど下に埃っぽいコンクリートの床がある。上体を前に屈め、頭は深く下ろされてほとんど見えない。顔の代わりに視線を引き寄せるのは両手だ。背後で固く握り合わせた手が、写真の中央にある。「祈っているか、懇願してるみたいだろ」とサムニーは言う。科学技術博物館の後ろにある講堂で行なった撮影は、ジャムフィにとって、舞踏かパフォーマンスに似たものだった。「モーゼスは曖昧なものや奇妙なものが大好きだと思うけど、僕の内面の奥底にも同じ傾向がある」

左の画像:エリック・ジャムフィ撮影。『無題』(Aromanticism)。2017年。右の画像:エリック・ジャムフィ撮影。『無題』(Græ)。2019年。
2020年のアルバム『Grae』のカバーになった重厚な絵画のような作品を含め、ジャムフィがサムニーの写真をすべてガーナで撮影した事実は、西アフリカのポートレート写真というジャンルを支配しているらしい地理的、政治的、美学的関連への秘かな介入だ。ジャムフィのアプローチは写真の歴史に根差してはいるが、ある種の不遜な姿勢でそれと向き合い、非常に豊かな成果を生んでいる。彼の作品は、被写体の写実的な再現から緊張関係を引き出し、明快な理解を妨げる。だからといって、そのような不確定性がポートレート写真の意義を減じるわけではない。時代精神と関係していることは無論だが、サウンドの称賛と遊び心のある実験という著しく異なる言語で動作する。だらりと力を抜いた四肢や宙吊りのポーズは、映像作家でありアーティストでもあるコーリーン・スミス(Cauleen Smith)が「写実の潜在力」と呼ぶだろうものを放射して、単純な意味づけを覆す。
これらのイメージによってサムニーは奇妙な世界と孤独を好むミュージシャンのペルソナを作り上げていき、ジャムフィはありふれたものを再構築して奇妙なものへ変容させる思考を追究した。2018年に発表されて高い評価を受けた『Fixing Shadows: Julius and I』シリーズは、1万枚の青写真で、彼自身とミニマルな楽曲を遺した故ジュリアス・イーストマン(Julius Eastman)のポートレート写真を無限に組み合わせた。ジャムフィはこう語っている。「イーストマンと僕の合成ポートレートを見ていくと、中には、違和感なく繋がったものがある。どこかで実際に見かけたことがあるような気がする。でもよく見ると、この世に生きてはいない人間、実在しない人間だと言うことがわかる。するとそれは奇妙なものに変わる」。ジャムフィがこれらの作品に持ち込むレンズは、より大きな意味での予想、そして、現在のものであれ近代のものであれ、家族のアルバムに貼られたものであれ美術館に展示されたものであれ、西アフリカのポートレート写真を見るときに当て嵌められるプロトコルに疑問を呈する。「大切なのは、物事を過剰に固定し過ぎないことだ。政治や理念は毎日の生活に根差している。僕たちは日常生活の観察から、特定の物事に関するパラダイムを作り出す。すべては生活のなかで探して、生活の中に位置付けることができる。だから問題は、いかにしてそういう物事を集約し、凝縮して、シンプルにするかってことだ」と、ジャムフィは警告する。写真に対する高潔なアプローチだ。写真は構成する要素を抽出できる一方で、多様な役割と形態を生成し続ける媒体だ。ポエトリーの動きとさえ、言えるかもしれない。
Oluremi C. Onabanjoは、アフリカの写真 & アートのキュレーターおよび専門家。ニューヨーク近代美術館写真部門のアソシエイト キュレーターを務める
- 文: Oluremi C. Onabanjo
- 画像/写真提供: Galerie Clémentine de la Féronnière、Autograph ABP、October Gallery、Eric Gyamfi、Moses Sumney
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: July 28, 2021

