ファッション批評の
レゾンデートル

ファッションの
歴史と現在について、
3人の専門家が
深い知識を援用して
核心に迫る

  • 文: Camille Okhio
  • アートワーク: Sierra D'Atri

もはや価値を認められない世界で、批評はどこへ向かうのだろう? 現在、批評は必要以上に否定的であり、重箱の隅をつつくような人種による不要な注釈とみなされる。だが、意見や評価なくして向上がありえるだろうか? 剪定しない木が美しい花を咲かせるだろうか?

批評を軽んじる結果、現代ファッションは否定と肯定の両面で損なわれる。誰ひとり作品をまともに取り合う観衆がいないとき、アーティストは自分の仕事と真剣に向き合えるだろうか? 私たちは、その時々の視覚表現を、文脈から切り離して理解できるだろうか? 衣服の創造に必要なもの、衣服を身につけることの意味を知らずして、現代世界に即した服装をなしうるだろうか?

男性支配の思考が浸透しているせいか、あるいは社会全体が虚栄を避けようと願うからか、私たちは徐々にファッションを遠ざけるようになった。ファッションの創造にまつわるアイコン、ミューズ、労働、知性も同様の道を辿った。このような欠落のせいで、ファッションは生活の中でもっとも浅薄、もっとも瑣末、もっとも役立たずな部分の象徴となり、過剰消費と汚染の媒体にされてしまった。ファッションという視覚言語を失い、ファッションが私たちの過去と現在を語りうることを忘れてしまった。

『ELLE』ファッション記事ディレクターのヴェロニク・ハイランド(Véronique Hyland)は、2022年に出版された『Dress Code』で、健康、魅了、羨望、政治など、いくつかの社会テーマと関連させながらファッションとファッション批評を考察している。機知に富んだ文体で、ファッションが影響を及ぼす多数の領域を私たちの生活から取り出し、ファッションが曝け出すものの大きさを明確に納得させる。歴史的な逸話や私生活の思い出も盛り込まれている。特に、駆け出しの頃、職場へ着て行く服に頭を悩ませたことを語った章は秀逸だ。

『Dress Code』とぜひ合わせて読みたいのが、2021年出版の『Fashion Criticism: An Anthology』だ。パーソンズ美術大学でファッションの准教授として教鞭をとるフランチェスカ・グラナータ(Francesca Granata)は、本著でオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)からヒルトン・アルス(Hilton Als)に至るエッセイと批評を網羅し、研究分野の幅広さを示した。衣服のレンズを通して、思いがけないテーマが浮かび上がる。例えば、ユダヤの伝統とワスプ (アングロサクソン系白人新教徒) の羨望、スタイルとしてのヘア (特に1960年代から1970年代にかけて政治的表明となったアフロ)、19世紀の英国における機能性を無視した服装規定。過去に登場した数々のファッション提唱者にまつわる話も披露されている。『New York Times』紙のベテラン ファッション記者ガイ・トレベイ(Guy Trebay)は、必ずメンズウェア コレクションのアイテムを実際に着用した後で記事を書いた。彼の実践方法は「具現的批評」と称されている。

ある日の午後、私たち3人は、シックなフランス女性という現実にはあり得ない理想から16世紀の節約令まで、ファッション界で繰り広げられるアイデンティティ、欲望、茶番を語り合った。ファッションにストレスと自己嫌悪が吹き込まれた背景には女性蔑視が作用しているし、困難にもかかわらず素晴らしい仕事をしている人たちもいる。ファッションとファッションを愛する人には、どんな挑戦が残されているのか? ひと言で言えば、批評を批評する対話だった。

カミール・オキオ(Camille Okhio)

ヴェロニク・ハイランド(Véronique Hyland)、フランチェスカ・グラナータ(Francesca Granata)

カミール・オキオ:あなた達が出版した本は、それぞれ違った意味で、とても必要とされる内容だわ。フランチェスカが選んだエッセイは素晴らしいし、幅の広さにも驚いた。オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)で始まってリン・イエーガー(Lynn Yaeger)へ行き着くなんて、読み物としてもすごく楽しかった。それから、歴史を辿ることで見えてきたパターンや変化も指摘してるわね。そういうパターンや変化から、思いがけないことが明らかになる。
「デザインの民主化」という言葉はこれまでに幾度も耳にしてきたけど、ファッション批評の民主化ってどういうものだと思う?

ヴェロニク(以下V):私は本の中でブログについて書いてるの。ブログなんて、もう目新しくもなんともないけどね。以前と比べて、今はファッションに関する批評をシェアできる場所が多くなった。ニュースレターもあるし、ユーチューバーもいる。誰がトレンドを語って、誰がファッションを批評するか。そういうヒエラルキーが存在しない。

それから、背景とか歴史と無関係に語られる。本当に新しいものなんて絶対ないんだから、まったくのオリジナルなんて紹介されてると嫌になることもあるけど、それ以外は、概してポジティブな傾向だと思う。

フランチェスカ(以下F):ある意味で、ファッション批評家は、ライターとか自分の意見を述べる人という位置付けね。ファッション批評は、歴史的に、批評という分野においてさえ高い位置には置かれなかった。

ちゃんとファッション批評家がいた出版物は、『The New Yorker』の他に、数えるほどしかなかったわ。『Washington Post』のロビン・ジヴハン(Robin Givhan)や『New York Times』のヴァネッサ・フリードマン(Vanessa Friedman)がファッション批評と政治を結びつけて、それが好評を博したことが大きな影響を及ぼしたの。今の若い世代は、アイデンティティの形成や人種やジェンダーを織り込んだファッション批評を書いてるわね。

『Fashion Criticism』の序文に、他の形態と比べてファッション批評にはほとんど関心が払われず、合理的に分析されることもなく、リソースや注目が与えられなかったと書いてあるとおりね。
19世紀から現在にかけて、ファッション批評に力を与えた構造や要素があると思う? 常日頃、記事に力を与える要素と考えてるものはある?

F:どんなライターや批評家にも通用することだけど、明確な視点を持ってることじゃないかな。それともちろん、評価できる能力があって、ネガティブとポジティブ、両方の批評ができる。今でもファッションの批評は綱渡りよ。

V:私は、外側の世界と関連したファッション批評がいちばん優れていると思う。例えばロビン・ジヴハンがファッションについて書くときは、つねに世界で起きているすべての物事を念頭に置いてるわ。ファッション批評には、決して確たる結論に行き着かないものが多い。意見がないの。

つまり、衣服が現実世界で果たしている役割に、もっと注目して欲しい?

V:ええ。デザイナーが何に刺激されてアイデアが生まれたか、それについてデザイナーがどう言ったか、そういうことに焦点を当てた批評は時々あるけど、そこから先へ進まない。私は、もっと広い世界で進行している状況を認識した批評に興味を感じるわね。自分が書く記事でも、今回の本でも、やろうとしたのはそこなの。

同感だわ。私たちが意識していようが無意識であろうが、すべてのことは相互に影響し合ってるものね。
ニュースレターを取り上げて、2000年代初期のブログとの類似を指摘してるでしょう。あれを読んで、ファッション批評が辿った軌跡は必ずしも直線的ではなかったのかもしれないと思った。過去数十年を振り返って、ファッション批評の進化や回帰についてどう考える?

V:ファッション ニュースレターの氾濫に関して、記事を書いたことがあるわ。ニュースレターの語り口はブログにすごく似てると思った。同時に、オンラインで出版されるものは、どれもSEO重視の傾向がとても強いことを感じたわね。短時間で書かれて、自分が書いていることを実は良く知らない人も多い。今は、社会が説明に飢えてるの。私の本を売り込もうとしてたときでさえ、「説明」市場に気づいたわ。みんな混乱してるから、気の利いた250語程度の文章とは反対に、専門家のきちんとした知識を求めてる。

F:ファッションは何よりもまず視覚に訴える、これが大前提。私のリサーチによると、初期のファッションの定期刊行物は、本当にファッションプレートだけなの。衣服の種類と短い説明以外には、何も文章がない。ファッションに関する限り、最重要なのは常に視覚だと思う。でも、市場にこうしたニッチがあるということに関しては、ヴェロニクとまったく同意見よ。関連や関心の度合いにしたがって、いろいろなアプローチがある。

反対に、あなたの本によると、当初『New Yorker』は記事に写真を掲載しない方針だったとか。つまり、ロイス・ロング(Lois Long)のエッセイは画像無しで出版されたってこと? 画像がないことは、読み手にどう影響すると思う?

F:そう、初期のファッション批評は画像がなくて、記述に尽きたの。素材も、今ではもうやらないような方法で説明してた。

記述なしに批評ができるかしら? そんなこと、不可能だと思うけど…。もうひとつ、最初に読んだファッション批評を覚えてる?

V:『New York Times』のエイミー・スピンドラ―(Amy Spindler)。最近になって、彼女の批評をたくさん読み返したところ。それから、アンドレ・レオン・タリー(André Leon Talley)が『Vogue』で書いてた「Style Fax」コラム。

聡明な少女だったのね。

V:鼻持ちならないくらい。

(笑)

F:私は、ちょっと古めかしいけど、イタリア版『Vogue』のアンナ・ピアッジ(Anna Piaggi)。

ああ、すばらしいファッション ジャーナリストだったわね。では、ファッションに関連して、切り口が特にユニークだと思った文章やライターは?

F:ビビ・ムーア・キャンベル(Bebe Moore Campbell)。フィクション作家としてのほうが有名だけど、70年代から90年代にかけて、『Ebony』や『Essence』やたくさんの女性雑誌にファッション批評を書いてる。アンジェラ・カーター(Angela Carter)も印象に残ってるわ。

V:私は『The Fashionable Mind』を書いたケネディ・フレイザー(Kennedy Fraser)がすごく参考になったわ。かなり長いあいだ『New Yorker』のファッション批評も担当してた人よ。ずいぶん昔に書かれたものなのに、とても現代に通じるところがある。例えばあるエッセイでは、フィットネス教室の流行とファッション界との関係を書いてるの。つまり、フィットネスが流行った裏には、女性たちがコルセットやガードルで体形を補正しなくなって、場合によってはブラまで捨てた背景があったのね。『Dress Code』で写真のフィルタリング、極端なダイエット、整形手術なんかをとりあげたエッセイは、フレイザーのエッセイに影響されてる。

哲学者のヘザー・ウィドウズ(Heather Widdows)の『Perfect Me』は、ウェルネスと外見に紐づいた道徳として、美しさを考察してる。

その点は、『Dress Code』を通じて、とても鋭敏かつ見事に触れてるわね。特にフランス女性コンプレックスを論じた第4章。業界が押し付ける概念によって、人種、体形、髪質、その他すべてを包含した個人のアイデンティティが強く抑制されてる。

V:美しさを理由にもてはやされる女性は、大抵が白人。非常に白人中心の領域よ。有色の女性が混じっているとしたら、そこへ行き着くだけでも、はるかに多くをやり遂げた人たちだわ。ドロシー・ダンドリッジ(Dorothy Dandridge)、ジョセフィン・ベイカー(Josephine Baker)、アンナ・メイ・ウォン(Anna May Wong)…、みんなそう。20世紀中頃に外見だけで有名だった女性は例外なく白人だったし、今もそうよね。

誰でもパリに行けばすごく楽しいでしょ。でも前回私がパリへ行ったときは、自分の存在にすごく混乱と怒りを感じたの。そうすると、個人の概念とフランス風シックという脅迫的な理想について、考えざるを得ない。だから、ヴェロニク、あなたの本が参考になったわ。

V:フランス風シックという理想の起源を探ってみたとき、強烈に印象的だったのはシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)が『Esquire』に書いたブリジット・バルドー(Brigitte Bardot)の人物紹介よ。ボーヴォワールが書いたバルドーの描写は、私のバルドー観とは別物だった。私に見えるバルドーは、化粧が濃くて、手の込んだヘアスタイルをたっぷりのヘアスプレーで固めてる人。ところが当時のバルドーは、裸足で歩き回って、誰にどう思われようと気にかけない、みたいな自然児的な女性の象徴だった。

フランス女性という現在の語り口はそこから来てるの。生き方、人生の楽しみ方、着こなし、あらゆる行動のすべてを、私たちよりよく知っている。反面、子供のように無邪気で、物事を理解していない。つまり、ボーヴォワールが描写したバルドーは、文字通り、ある種の生きものだった。なんでもよくわかってるくせに、森の中で暮らす初心な世間知らずみたいに、周囲を理解できない生きもの。それというのも、沈着冷静な女性という概念が恐怖だったから。落ち着きと自信のある人は、ミューズやムードボードに使いにくいのよ。

政治の部分に話を戻すと、ヴェロニク、あなたはマルクス主義と大量消費主義の衝動をハイスクール時代に両立させたと本の冒頭で書いてるわね。一体どうすれば、そのふたつを両立できるの?

V:簡単とは言わない。成長期はゴミ捨て場でショッピングしてた話をエッセイにも書いたけど、今でも、私が着てるのは買ってないものが多いのよ。買うとしたら古着屋、そうでなかったら廃棄物から拾ってくる。大量消費が基盤の産業だから、難しいことではあるわ。みんな目新しいものを求めるし、新品のきれいなものを欲しがるから。

だけど、ショッピングやデザインをエシカルに実践できる方法はあると信じてる。アップサイクルしたり不良在庫を利用してるデザイナーについて記事を書くし、そういう若い世代に励まされる。お先真っ暗な未来を想像してるわけじゃないけど、同時に、ひとりひとりの選択には限られた力しかないことも心に留めておきたいわね。

そうよね。企業や政府の責任が大きい。

V:ゴミ廃棄場に新品の服が山積みされてるのを見ると、ゾッとするわ。消費に関しては女性に責任を負わせる傾向がある反面、身だしなみ、輝くような若さ、職場ではスマートなやり手であることも求められる。

1700年代当時の女性たちは、コルクで作ったフェイクの腰当てを批判されたの。現代人には共鳴できる反応でしょ。だけど当時は、腰当てでスカートの後ろを膨らませるスタイルが美しいとされてたの! だから、女性たちはフェイクを作って、美しくあろうとした。やっても批判される、やらなくても批判される。大量消費の批判がファッションに集中して、例えば化石燃料みたいな他の産業がそれほど批判されないのが不思議だわ。

1700年代のコルクの腰当てと聞いて、節約令を思い出したわ!

V:今いちばん盛り上がってる話題よ!

そう! 歴史マニアとしては、この上ないほど魅力的な話題だよね。現代にも、節約令に相当するものがあると思う?

V:答えは「ノー」、かな。何でもたちまち生産されるし、セレブや金持ちが着てるものはすぐにコピーされて手に入る、というのが唯一の理由だけど。

もしかしたら、ウェルネスとかきれいな肌とか、そういう方面に向かうのかもしれない。着たり染めたりするより、健康のほうが手に入りにくいもの。

F:それが次に開拓される分野だと思う。

確かに。ヴェロニク、究極のファッションには今でも変革を起こして世界を変えられる力がある、とあなたは書いてる。そういう力をどういうふうに行使できるのかしら?

V:私が考えてるのは、Tシャツを広告に使ったり、例えば抗議運動でメッセージを表明する方法。もうひとつの変革は、ファッションが以前よりジェンダーレスな世界を作ったことよ。ジェンダーにふさわしい服装という規則が少なくなったし、規則を無視できる風潮が高まってる。革命的と銘打ってマーケティングされてるけど、実際には革命的でも何でもないものもたくさんあるから、難しいけどね。

例の猫耳の「プッシー ハット」とか。

F:そう。歴史的には、1930年代に黒人や有色の移民から生まれたズート スーツみたいに、衣服が時代の政治に対する挑戦を強く象徴するときがある。そういう事象は、実際に進行しているときより、後から振り返ったほうがよく理解できる。だから、その時々のリアルタイムな批評を求められるファッション批評は難しい。

V:『Dress Code』では、アンナ・デルヴェイ(Anna Delvey)やエリザベス・ホームズ(Elizabeth Holmes)のような詐欺師についても書いたの。彼女たちはファッションを利用して詐欺を働いたし、私たちも似たようなことをしてる。つまり、ファッション次第で、必ずしも本物ではないアイデンティティを装うことができるのね。これはすごくおもしろいと思う。

F:興味深いわね。歴史的には、ファッションは常に技巧や策略とみなされてきたから。

策略! 『プラダを着た悪魔』の有名なセリフを思い出すわ。すっかりお馴染みだし、ヴェロニクの本にも出てくるセリフ。誰かを真似ているだけかどうかに関らず、あらゆる選択は選択した人を物語る、って。ファッションに策略はありえないって言えるんじゃない? 基本的には、毎日のあらゆる選択で秘かに自分を暴露してるんだから。そこにこそ、ファッションの重要性と利用法があるんだし。
さて、そろそろもっと大きな質問に移りましょうか。ファッション批評の目的は何でしょうか? そもそも、目的が必要でしょうか?

F:カルチャーとしても産業としても、ファッションには批評の分野が不可欠だと私は思う。ファッションが正しく機能するためには、ファッション批評がなくてはならない。

V:ファッション批評は、社会に対して説明を提供し、文脈を示し、歴史を教えるうえで、ますます大きな役割を果たすと思う。ファッション界には批評というレンズが必要よ。批評にはファッションを抑止する側面もあるの。

Camille Okhioはニューヨークシティ在住のライター、アートおよびデザイン史研究者

  • 文: Camille Okhio
  • アートワーク: Sierra D'Atri
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: July 6, 2022