私はあなたのお母さん?

手の届かない、ある特殊な形の願いに寄せて

  • 文: Jamie Hood

この7か月、私がひっそりと暮らしているのは、いまだに人声が賑やかな保育園からすぐそこのアパートだ。無数の店やコミュニティ センターが、一時的にしろそうでないにしろシャッターを下ろしてしまったあとも、この孤絶の時がもたらす心の霧を、保育園はエネルギーと喜びに満ちたビーコンで灯台のように照らしている。

朝、私と犬がその日の最初の散歩に出かけると、ちょうど登園の時間に当たっていることがある。笑い声や、興奮した金切り声、幼児のぐずる声、小さな足がさらに信じられないほど小さな靴を履いてパタパタ走る柔らかな音、それらが混然一体となった不協和音が私たちを包む。子どもたちはよちよちと、ドアのところで待っている園の職員のところへ向かい、丸々した両手を消毒してもらう。

時折、勇敢な冒険家が「ワンちゃん、ワンワン」などと言葉を発しながら、犬のオリーブに近づいてくる。オリーブはいつもそっと匂いを嗅いで、心優しく懐っこいちびさんたちに応える。オリーブは嬉しい気持ちを表に出さないが、それでも小さな子たちを驚かせてしまうこともある。子どもたちは彼女の大きさに怯える。オリーブには自分たちを圧倒する力があると本能的に知っているかのように。何しろ自分たちはこんなに小さいのだから。

やってくるその痛みは鋭く、熱を帯びている。母になりたいという渇望。赤ちゃんが欲しいという熱望。3年前、私は胸をもっと豊かにしたいとむなしく願い、プロゲステロンをホルモン療法に加えはじめた。ホルモン剤は、身体を私の体内のサイクルやリズムに近づけて、身体の他の本能的欲求も強くした。プロゲステロンは私の性欲を充溢させて、ほとんど現実とは思えない感覚をもたらした。愉悦の訪れと共にお馴染みの憂鬱もやってくるが、それはテクニカラーの世界のように鮮やかで、私はオズの世界で目覚めたドロシーだった。私のいくつかの願望は特別な形をとり、求心力を高めていく。その中心にあるのは、自分の子を持ちたいという願いだ。

私が血を分けた子を持つことはないだろう。「妊娠できないの」と、私は遠回しな表現を使って、子宮のない自分の身体がそうした作りになっていことを言語化する。私たちがファックするとき、「メイク ラブ」だと恋人は笑いながら訂正するのだが、彼が私のなかで果てるのが気持ちよくても、そこで愛の結晶が作られることはない。私は私自身の終点だから。自分がトランスであることを悲劇と名付けるつもりはこれっぽっちもないけれど、それでも私の挫かれた夢を物語にしたいという衝動はある。

私はしばしば、手の届かない願いについて書く。そして時に、果てしない打擲の沼にはまり込むことを不安に思う。あるいは、焦がれても手に入らないに決まっている経験の端を縫い合わせようと、自分の筆をごまかすことを心配する。私はそうした願望を感情から排除する。先に扉を閉じて、いつかそれに近づくかもしれないものに目を瞑る。もっと若かった頃は、そうした手に入らないものたちを、私は政治につなげた。自分が―そして場合によっては自分と同じような多くの女性たちが―、文化的に遠ざけられてきたものを拒否することがラディカルなのだといわんばかりに。

私はもう少し大人になった。自分に許されていないからといって、喜びや経験を自分に禁じるべきだという考え方は腹立たしい。「母になること」を自分の人生の軌道に近づけるために、この頃、私は物語をせっせと書いている。それは願望によってもたらされる未来だと信じている。物語には、語ることによって出来事を矮小化し、囲い込み、乗り越えやすくするものがある。だが、魔術師のように無から生み出し、現実に変えなければならない物語もあるのだろう。母になるという幻想から、たとえどんな魔法を使うにしても、それを現実に変えるかもしれない長期計画へと意識を切り替えて、私は長いコロナの冬を夢中で過ごした。

もしかしたら、自分の母親のことも考えていたかもしれない。この文章を書いている時点で、母には15か月間会っていない。不在を寂しく思う気持ちを、起こりうる私の人生のまだ見ぬストーリーに編みこんでいく。そしてまた考える。私が母を、初めて100パーセント人として見ることができたのはいつだっただろう、と。生きた人間として、という意味ではない。ひとりの女性として、これまでも今も、自分だけの歴史を、欲望を、夢を持った女性として、私とひとつ屋根の下に暮らしてきた欲望の塊として、という意味だ。

私が繰り返し読むアン・セクストンの「ダブル イメージ」という詩のなかで、語り手はその母親を「鏡のほら穴」「私の転覆された/愛、私の第一のイメージ」だと考える。それは彼女が母として成熟するために乗り越えるべき「死の石像の頭部」だ。その詩は、三重に重なる三世代の女性たちを空想する。彼女たちは互いの美しい分身であり、醜いコピーでもあって、その顔立ちによって、いやおうなく互いに繋ぎ留められている。彼女たちの顔は、壁に掛かる肖像画のなかから彼女たちを虚ろに見つめ返している。

そんなふうに鏡に映し合うことが、母と娘の文学に息を吹き込むことがある。母が他者であり、同時に自分が年を重ねるごとにますます似ていく誰かであることを認め、その悲哀を受け入れて初めて、ようやく母も私も、互いへのもっと前向きな共感の境地を見出せるようになったように思う。そしてその共感は、母になることへの私の願いと完全に結びついていると感じる。母と娘の出会いをゆがめ、邪魔する経験と力の差という神話を乗り越えて、女同士として彼女と正面から向き合うには、私は母になる願望に身を任せなくてはならなかったのかもしれない。

母になるという願望が、私の世代の女性、とりわけ、偶然に母になることが望めない私たちのような女性の人生に相変わらず縫い込まれているのは意外かもしれない。母であることで、あるいは母になりたいと願うことで、いかに多くの壁が女性の前に立ちはだかるかは、これまで以上にわかりきったことだから。そのうえ、ミレニアル世代の私たちは大人になってからずっと、安定と公正を失い続けるこの世界に子どもを生み出すなど無責任だと言い聞かされてきた。こうした批判を即座に退けるのは難しい。

2019年現在で、ミレニアル世代が所有する不動産は全体の4%にすぎなかった。そして、私たちの純資産は、過去25年間で34%減少した。これは私たちが抱える、学生ローンの負債やアメリカの医療システムの破壊が積み重なった高すぎる壁の話ではない。といって、ベビーブーマー世代による資本独占のオンパレードをあげつらったり、正そうとして、マニフェストを書こうとしているのでもない。私はただ、私たちの政治がさらに左へと傾斜していくにつれ、自分たちが反対する暴力的なシステムの破壊そのものによって、みずからが家族の衰退へと向かっていく事実と向き合いたいだけなのだ。

たぶん、核家族は本当に絶滅させる必要があるのだろう。でも、裕福で白人でシス ジェンダーの女性だけが母になる手段を持ちうる、あるいは持ちうるようだという鼻先に突きつけられた現実は、あるがままに受け止めるべきだ。胸を抉る敗北として。私たちはそれをイデオロギー的にもっともらしく説明をつけるだろう。しかし、それでも必ず感じるのだ―その欠落を。

さらに、パンデミックが雇用と家庭の領域におけるジェンダーと人種による格差を増幅した。2020年3月から2021年3月の1年間に失職した人々の大多数は、女性、それも黒人とラテン系の女性たちだった。有色人種の女性の雇用比率が極端に高い多くの産業が最も打撃を受けていることもあるが、両親が揃ったヘテロセクシャルの家庭の場合、学校や保育施設が閉鎖されると、子どもたちの世話や教育のために働き手の役割を降りて家庭に入ることになったのは、主として母親たちだったからだ。

新型コロナウィルスの流行中に、経営していたウェディング装飾のビジネスが倒産したシャニータ・マシューズ(Shanita Matthews)は、『Vogue』_にこう語った。「マクドナルドに時給10ドルで働きになんて行けない。だってベビーシッターの時給が10ドルなのよ」。経済危機と疫病の流行のなかで、職を失いながら子育ての責任を果たすという重荷の大部分は、女性にのしかかった。秋の国勢調査の時点で、女性の3分の1が子どもの世話をするために失業したと答えたが、同じ回答をした男性は12%に過ぎなかった。今回のパンデミックとそれがもたらした不況のような危機は、今後も継続的に災害が起きることを予想させる。気候変動の影響が次第に明らかになってくるなかではなおさらだ。突然の圧が加われば、公平のメッキは剥がれ、古い亡霊が姿を現す。

だが母になることを、周縁からアプローチする現実的な問題として考えることは、まったく次元の違うやっかいな問題だ。それは、論証的に母になる資格があるのは誰かという問いの形で、いわゆる「自然化された」役割を求める現代の欲望をクローズアップする。経済的、法的、文化的に、あらゆる面で現実として母になるのにふさわしいのは誰なのか? 持っていないもの、あるいは持つことができないものを求めることを、現代のナルシシズムという安易な決めつけの上に描くべきではない。それはもっと広範な社会的病の症状と見なされるべきものだ。私たちの人生における欠落は、システムの欠陥を強調する―私たちのなかの誰が、どうやって求める人生を送れるのか。

それでも私は考える。死にゆく世界で子どもを育てたいと願うことの意味はなんだろう。そんな願いがもたらす努力が、日ごとに吊り上がる世界の終末への賭け金をさらに押し上げる。そう、たぶんこの欲望の繭に閉じこもることは、死を遠ざけようとするもうひとつの悪あがきなのだろう。そして今、私たちは全員同類だ。去年という時間外の時間がもたらした、終わりなき死の表徴に包まれながら、日常を送っているのだから。

自制を失う日がある。お金を得るためのバーテンダーの仕事からの長い離脱。人との付き合いからの退避。私の内側を世界と隔てている壁が薄くなり、ときに溶解する。そんな日は、私は散歩から戻り、普段通りオリーブのハーネスを外し、いつのまにかキッチンのシンクの前にいる。心ここにあらずでそこらの皿を洗い、拭いたものをそれぞれの場所に戻す動作を始める。私は胸がいっぱいになるとよく泣き出すのだが、涙を流すことは、無作為の爆発、あるいは感情の高ぶりの決壊だ。ジェイムズ・エルキンズ(James Elkins)は、「涙を流して泣く習慣があるのは、ほぼ人間だけだ」が、人間は「実際あらゆることで泣く」と書いている。でも、私はそれよりマシであろうと努力している。嘘ではない。この頃、家事と手を動かすことで気を紛らわせるようになった。編み物や繕い物、40種類ほどの植物の世話―、それが私の鎮痛薬だ。

もう数か月前になる。会話のなかで恋人が、養子を迎える手続きについて調べていると何気なく言った。自分がこの場所にたどり着けると思っていなかった。こんなに幸せで、愛の大きさに圧倒されて。付き合った男たちの誰も、ふたりで子どもを育てる可能性を真剣に考えてはくれなかった。それが今、パンデミックの最中に、まるで何かに遣わされたかのように、彼がここにいる。恋愛に疲れ果てて、もうこのゲームから離脱しようとしていた私のところに。私は彼の告白にまた泣き、彼は私の涙がいともたやすく湧き出すことを知る。イエス、私は言う。ええ、なんて素敵なの、そうしましょう。

Jamie Hood は『Vogue』のThe Best Books of 2020 の1冊に選ばれた『How to Be a Good Girl』の著者。Hoodの作品は、『The Rumpus』『The New Inquiry』『Transgender Studies Quarterly』『The Nation』に掲載され、あるいは掲載が予定されている。ブルックリンに暮らし、作家活動の傍らバーテンダーとして働いている_

  • 文: Jamie Hood
  • アートワーク: Sierra Datri
  • 翻訳: Atsuko Saisho
  • Date: May 6, 2021