Helmut Langを紐解くA~Zガイド

1990年代のファッションを牽引し力強く2020年代を突き進むHelmut Langのすべて

  • 文: Max Berlinger

ファッションに真の影響を及ぼすデザイナーは10年に一人か二人しかいない、とカール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)は言った。1990年代は、間違いなく、ヘルムート・ラング(Helmut Lang)がその一人だった。

くらくらするほどの過剰に彩られた1980年代のあと、ラングが送り出したすっきりと無駄のないインダストリアルなデザインによって、1990年代ファッションが進む方向は定まった。このハンサムで寡黙なオーストリア人デザイナーは正式にファッションを学んではいなかったが、切れ味のいいテーラリング、センシュアルにレイヤードしたTシャツ、挑発的なニットウェア、実用的なアウターウェアで、並ぶ者のない名声を得た。彼のデザインには、新世紀を待望する一方でテクノロジーがもたらすであろう希望あるいは脅威を予期する世界が映されていた。現実を見据えた力強い魅力で、X世代の厭世感を伝えていた。いろいろな意味で、苦悩と不安を抱えたグランジムーブメントを表現する服だったのである。今に続く彼の影響をどれほど説明しようと、決して誇張とは言えない。当時の美学に揺さぶりをかけただけでなく、ランウェイ ショーの演出や開催時期そして体験媒体まで、ファッション界の長年の慣習を覆したラングは、過去を振り返らず、今現在にインスピレーションを見出す真のモダニストだった。

Naomi Campbell、Helmut Lang 1998春コレクションのショーにて 写真:Giovanni Giannoni/WWD/Penske Media via Getty Images 冒頭の写真:Helmut Lang1999春夏ショーのバックステージ 写真:Fairchild Archive/Penske Media via Getty Images

Helmut Lang、モデルたちとパリのHelmut Lang 1997秋冬コレクションのフィナーレにて 写真:Giovanni Giannoni/WWD/Penske Media via Getty Images

2005年にファッション界を去って以来、ラングはファインアートの活動に打ち込んでいる。彼が誕生させたブランドHelmut Langは、幾人ものデザイナーの手を経て、今も健在だ。現在のクリエイティブ ディレクターであるピーター・ドゥ(Peter Do)は、2023年9月に初コレクションを発表した。機能性を重視したラングのデザインは、「常に真実の場所から生まれたものです」とドゥは言う。「長年の歴史に裏打ちされたユニフォームやヘリテージから出発しているんです。毎シーズン、ますます多くの学びがありますよ」。2024年を迎え、ファッション人種の多くは、インターネット以前の時代だった1990年代後期と2000年代初期に郷愁を覚えている。ファッションが大きく刺激された、極めて重要な時期だった。振り返れば、どうしようもなくラングの目線への憧憬が募る。

パリ、Helmut Lang 1998春夏コレクション 写真:Fairchild Archive/Penske Media via Getty Images

ニューヨーク、Helmut Lang 2000秋冬コレクションのバックステージ 写真:Fairchild Archive/Penske Media via Getty Images

だから改めて、ラングがファッションにとってもっとも重要な存在だった時代の大きな要素と節目を考察してみようと思う。

オーストリア(Austria)

ヘルムート・ラング(Helmut Lang)は1956年3月10日にオーストリアのウィーンで生まれた。

壊れた人形(Broken Dolls)

デザイナーとしてのキャリアを通じて、ラングは常に革命児だった。特に1990年代から2000年代初期にかけては反逆の精神が顕著だが、ファッションショーにも大きな変革をもたらした。例えばモデルは2人1組で登場し、従来のショーのようにキャットウォークを往復するのではなく、壁4面に沿って座席を並べた会場をランダムに歩き回った。マヌカンには友人や素人を多く起用して、慣習に捉われない新しい類の美しさを求めた。「壊れた人形」みたいなモデルがいいと言ったことは有名だが、実際、そのとおりだった。あるスタイリストは「若くてセクシーなジャンキーの美学」と表現したと、『The Washington Post』に書かれている。現在の規準からすれば穏やかでない形容かもしれないが、シンディ・クロフォード(Cindy Crawford)やナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)といった華やかな美形スーパーモデルが活躍し、彼女たちの伝説的ペルソナが誕生した当時の風潮を代弁していたことは確かだ。それに対してラングは反発したのだ。かつてバーニーズ ニューヨークのクリエイティブ ディレクターだったサイモン・ドゥーナン(Simon Doonan)は、「彼がキャスティングしたショーは、ファスビンダー(Fassbinder)の映画を観ているようだ」と、『Vogue』に 語っている

CD-ROM

ソーシャルメディアが威力を振るい、ショーとほぼ同時にランウェイの画像を見られるstyle.comが登場するはるか以前に、ラングは革新的な行動をとった。1998年秋シーズンコレクションは、モデルがランウェイを歩くショーを止め、代わりに、写真と動画を焼いたCD-ROMをエディターやバイヤーに送りつけたのだ。もっと驚くのは、ラングのウェブサイトhelmutlangny.comでも閲覧できたことだ。ただし、評判は良くなかったし、アナ・ウィンター(Anna Wintour)もスージー・メンケス(Suzy Menkes)もお気に召さなかった。「CD-ROMは大きな間違いだと思ったわ」とウィンターは『New York Magazine』に語っている。「なんと言ってもショーは特別なの。雰囲気があるし、フィーリングがある。服がもっともっと素敵に見えるのよ」。『New York Times』は、新奇な媒体のせいでディテールやニュアンスが失われたとクレームをつけた。これに対してラングは、「CD-ROMがショーの代わりになるとは一言も言っていない」と応じた。ますます多数のショーが開催され、観客数も増加を辿る状況で、CD-ROMをひとつの対応手段とラングは考えたのだ。「ショーが多過ぎるし、ショーを観に行くことが大きな苦痛になってるんだ」。今にして思えば、ラングのとった行動には先見の明があった。インターネットがどれほど徹底的にファッション業界の序列を書き換えるか—そのことを真に理解できる人が誰もいなかった時期に、すでにラングは最前線に立ち、内側からファッション業界を激変させていた。

デニム(Denim)

ラングの魅力の一つは、平凡なファッションアイテムをデザインの対象にした点にある。もっとも良い例がデニムだ。ラングのデニムはローカットでスリム。手の込んだウォッシュ加工を施し、汚れたり着古したりしているような外見に仕上げる場合もある。200ドル前後の価格は当時としては非常に高価だったから、出現しつつあったデザイナーデニム市場の先駆けと見なす人も多い。とにかくラングのデニムは大変な人気を博したので、Helmut Lang Jeansというサブブランドの誕生に繋がった。サブブランドでありながら、ショーではメインブランドとミックスされていたのも、ラングの型破りなやり方だった。1999年春夏コレクションでは、ごく普通のブルージ―ンズにペイントの飛沫を散らしたデザインが登場したが、おそらくこれが一番有名なHelmut Lang Jeansだろう。

肘(Elbows)のスリット

1997年に発表されたリブ編みセーターは、ラングのもっとも象徴的なデザインのひとつだ。実はこのセーター、肘の部分に切り込みがある。ラングはほんのちょっとしたアイデアで危険な香りや常識破りの感覚を呼び起こすことができたが、このセーターほど顕著な実例は多くない。切り込みは肌の露出を仄めかし、裸体を暗示したのみならず、マスコミには女性器やクロッチ部分のないアンダーウェアになぞらえられた。このセーターを買ったアナ・ウィンターは肘の開口部を縫い閉じたそうで、「突き出た肘をあちこちで見る気にはならなかったわ」と『New York Magazine』に 語っている

フラット フロント(Flat Front)

フロントがフラットなトラウザーズは、ラングが巻き起こしたもうひとつの静かなる革命だ。1980年代は膨張と過剰に支配された時期であり、そんな美学は男性トラウザーズのフロントにも発現していた。ジョルジオ・アルマーニ(Giorgio Armani)に代表されるたっぷりのプリーツは、クロッチ部分を意識した当時の男性たちのシンボルだった。そこへ天啓のごとく登場したのが、フロントのゆとりを排除したラングのデザインだ。無駄のないスリムなラングのパンツから、ファッションは2000年代初頭のスキニージーンズ現象へと向かうのである。

ニューヨーク、Helmut Lang 1999秋冬コレクションのバックステージ 写真:Fairchild Archive/Penske Media via Getty Images

ニュー グラマー(Glamour)

まだウィーンを拠点とし、パリでショーを発表していた1990年代初期、ラングのデザインは「ニュー グラマー(新種の魅力)」と呼ばれた。抑制された外見、シャープな感覚、無駄の排除と少しばかりロックンロール的気概を指したものだ。ラングはそう呼ばれることを好まなかったが、1994年、『New York Times』のエイミー・スピンドラ―(Amy Spindler)にこう語っている。「1980年代にもてはやされた魅力より、もっと成熟している。当時は日焼けした肌が大切だったけど、太陽光線がもたらすダメージを知ったのはその後だろ。それと同じで、今は大仰な外見じゃなく、洗練を考える時代だ」

ハイ アームホール(High Armholes)

ラングはTシャツやジーンズのような日常着をランウェイの定番に作り変えた。デザインは驚くほどシンプルだ。ラングのラングたる所以は熟慮されたファブリックとフィットにあるのだが、そういったディテールは必ずしも画像から見てとれるものではない。さて、ラングのトップスを実際に着てみた人が大抵口にするのは、アームホールが小さく、高い位置にあり、体形を変えることだ。つまり着た人は自然に背筋を伸ばし、わずかに胸を押し出す姿勢になる。同時に、細身で控え目なシルエットを作り出すデザインでもある。「ラングのジャケットは両腕の下をすくいあげて、後ろから抱きしめる」とキャシー・ホリン(Cathy Horyn)は『Vanity Fair』に書いている。「デザイナージャケットではなく、セックスショップで売ってるものすごく猥褻なレザーのハーネスを着けたみたいで、少しばかり破廉恥な気分にもさせる。こんな興奮を喚起するデザイナーは、ラング以外に思いつかない」

インビジブル(Invisibility)

2000年の『The New Yorker』に掲載されたラングのプロフィール記事は「インビジブル デザイナー(姿を見せないデザイナー)」と題されていた。デザインに飾り気がないだけでなく、自己宣伝で知られる業界にあって、ラング自身も一種神秘的な存在だ。インタビューに応じることはめったにないし、たまにそうしても、答えは往々にして格言みたいに素っ気ない。彼はメディアを追いかける代わりに、作品に語らせた。オスカー・デ・ラ・レンタ(Oscar de la Renta)やマイケル・コース(Michael Kors)といった目立ちたがりとは非常に異なり、大きな存在でありながら舞台裏に徹したラングは、幾分、マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)、あるいは遡ってクリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)に通じるところがある。2000年にはアメリカ ファッション デザイナー協議会(CFDA)の上位3つのアワードにノミネートされ、最終的にアメリカ人以外で初めてベスト メンズウェア デザイナーに選ばれたが、授賞式にさえ姿を見せなかった。ジャーナリストのイングリッド・シシー(Ingrid Sischy)を差し向けて受賞を代行させたことはファッション界の重鎮たちを憤慨させたが、ラングは別にニューヨークを留守にしていたわけではない。授賞式会場からほんの数ブロックしか離れていない自分のスタジオで仕事に励んでいた。

ジェニー・ホルツァー(Jenny Holzer)

オハイオ州生まれのコンセプト アーティスト、ジェニー・ホルツァー(Jenny Holzer)は、さまざまな商品でラングと密接にコラボしたが、一番よく知られているのは、広告キャンペーンとラングの小売店内に展示された彫刻作品だろう。ホルツァーの最大の特色は、平易な言葉による謎めいた短文を大型インスタレーションとして提示する手法にある。ラングは、従来のファッション画像の代わりにホルツァーのテキストを使うという、予想外の広告を展開した。大きく太字でHELMUT LANGとだけ書いた看板をタクシーの屋根に乗せたのも、ラングが起こしたもうひとつの広告クーデターだ。かくして、ニューヨーク名物のひとつであるイエローキャブがニューヨークを走り回り、Helmut Langのブランディングに一役買う役目を果たした。ラングとホルツァーは出会った直後からコラボを始め、1996年のフィレンツェ ビエンナーレでは、ホルツァーの作品とラングの香水を組み合わせたインスタレーション「I Smell You On My Clothes」を展示している。その2年後、ラングがニューヨークで初めてオープンしたソーホー店では、ホルツァーのLEDディスプレイ作品が中心に据えられていた。

カルバン・クライン(Klein, Calvin)

ラングがファッション界に現れて話題をさらったあとに、カルバン・クライン(Calvin Klein)が登場した。彼の洒落た都会派ミニマリズムは怪しいほどラングのスタイルに似ていたので、ファッション批評家は「コピー」と決めつけ、マスコミでそう報じられることも少なくなかった。業を煮やしたクラインは、ラングのデザインと酷似したアシンメトリーなフィッシュテール スカートのスケッチをレポーターたちに見せ、日付がラングのデザインより前であることを示して、みずからのオリジナリティを証明しようとした話は有名だ。

Levi’s 501 ジーンズ

1990年代の初め、デニムラインの立ち上げに先立って、ラングはHelmut LangデニムのサンプルとLevi’sのジーンズを同封して報道関係者や店舗の見込みバイヤーたちに送り届けた。Helmut Langデニムの多用途性を明確に実証することが目的だった。

ミニマリズム(Minimalism)

PradaJil Sander)と並び、ラングが1990年代のミニマリズム ファッションを大きく牽引したデザイナーであったことは、多くの人の認めるところだ。1980年代は、クリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)の大仰な装飾やアルマーニのオーバーサイズ ショルダーのスーツなど、まさに過剰なファッションの時代だった。一方、ラングの無駄を削ぎ落とした美学は都会的でシャープだったが、同時にセンシュアルであり、実用的でもあった。1980年代の過多を一掃したデザインは、ふんだんな襞やロココ調の曲線に代わり、確実に現代人のウェアを提示した。それらはジーンズ、Tシャツ、スーツといった、ある意味で一番馴染みのあるアイテムだったが、ラングは一般的なファブリックを使い、体にフィットしたカットでテクノロジーの先端を感じさせた。「ミニマリズムは一貫してラングのシグネチャだ」と『New York Magazine』は書いている。「だが、それは見かけのミニマリズムだ。形状、カット、色使いはミニマルかもしれない。しかし、ファブリックとディテールには、たとえ微妙であれ、多大な創意が溢れているからだ」。現在のLEMAIREThe Row、あるいはフィービー・ファイロ(Phoebe Philo)のCelineを思い浮かべればわかるように、ミニマリズムなデザインはロマンティシズムや風変わりなバイブスへ流れることがあるのに対し、ラングのミニマリズムは厳然と揺るぎなく攻撃と哀愁の境界にある。1992年、『The Washington Post』に「ラングが作る服には厳然とした一面がある」と書いたのはホリンだ。「ブラックのレザーや濡れたような外見の化学繊維を好むことだけでなく、既成のファッション界に対する徹底した不信にも、そのことが感じられる」

ニューヨーク ファッションウィーク(New York Fashion Week)

ファッション ウィークの最後がニューヨークだった頃がある。それほど昔の話ではない。ロンドン、ミラノ、パリが終わったあと、時には11月に開催ということさえあった。それをひっくり返したのがラングだ。1998年にニューヨークへ移ったラングは、その数か月後、メディアやバイヤーへのコレクション発表を9月中旬と決めた。ヨーロッパのショーより前だ。この結果、全世界のファッション カレンダーが変わってしまった。「誰もがこの先何年も影響を受けるでしょうね」と当時の『WWD』エディトリアル ディレクター、パトリック・マッカーシー(Patrick McCarthy)は言っている。ラングの決断は、単に日付の変更に留まらず、世界のファッション業界におけるアメリカの立ち位置にも関連した。「アメリカのファッションは常に劣等感を持っていました。ニューヨークのランウェイに現れるのはどれもこれも、もうヨーロッパで目にしたものばかりだ、ってね。アメリカのデザイナーたちは『真似と思われるのは心外だ』と言っていたが、言うなれば、そういう状況を大きく変えるプロセスに火をつけたのがヘルムート・ラングでした」

オーシャン・ヴュオン(Ocean Vuong)

現在Helmut Langのクリエイティブ ディレクターを務めるピーター・ドゥは、2023年9月の初コレクションで、詩人・小説家のオーシャン・ヴュオン(Ocean Vuong)に文章を依頼し、シャツとタンクトップに配した。当然のことながら、ラングとホルツァーのコラボが脳裏に蘇る。

Prada

ラングは1999年にHelmut Langの過半数株式(51%)をイタリアのブランドPradaへ売却したが、両者の関係は緊張含みで、比較的短命に終わった。2005年にはラングが会社を去り、その翌年Helmut LangはPradaから日本の持株会社リンク セオリーへ売却され、リンク セオリー社はのちにファースト リテイリングに買収された。Helmut Langは現在も、Uniqloその他のブランドと並んで、ファースト リテイリング社の傘下にある。

パリ、Helmut Lang 1997秋コレクション 写真:Giovanni Giannoni/Penske Media via Getty Images

ニューヨーク、Helmut Lang 1999秋冬コレクションのバックステージ 写真:Kyle Ericksen/WWD/Penske Media via Getty Images

引退(Quit)

ラングは、2004年に発表した2005年春夏コレクションを最後に、ひっそりとファッション業界を去り、アートに専念するようになった。キャリアと影響力の絶頂からラングがあっさり身を引いたことに、ファッション業界は驚愕したものだ。それから5年が経過した2010年2月、アトリエで火事が発生し、アーカイブに保存していた服の多くが焼失した。業界人はこのニュースに大騒ぎしたが、ラングは逆にインスピレーションを得た。そして焼け残ったアーカイブを分解し、使われていた素材からアート展「Make It Hard」を制作した。アーティストとして新しい人生を歩むようになっても、ラングは相変わらず謎に包まれている。インタビューに応じることは滅多にないし、たまに応じたかと思えば、言葉数は少ない。現在は、ニューヨークとロングアイランドの自宅を行き来して暮らしている。

ラバー(Rubber)

ラングの創作でおそらく一番大きく意見が分かれて話題となったのは、1994年秋冬コレクションのラバードレスだろう。名前どおり、薄いラテックスラバーを使ったシンプルな袖なしシースドレスの上にレースを重ねたものだ。『Times』は「オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)とマルキ・ド・サド(Marquis de Sade)の出会い」と呼び、『New Yorker』はこのドレスだけのためにほぼ2ページを費やして「慎み深くエロティック」と評した。体を滑り込ませるには、まず全身にベビーパウダーをはたく必要があったそうだし、製造上の問題から限定数しか生産できなかったことは、当然、関心を煽った。ラングはこのドレスが「地球上で重要なカメラのほぼすべてに撮影された」と言っているが、それももっともだ。なぜなら、ラングの根本にあるシンプルと反逆の緊張関係をこれほど如実に示した作品はないからだ。

セックス(Sex)

ラングはモダニストやミニマリストとして知られるが、そのデザインにあるセクシュアルな性質も大きく取り上げられた。ホリンが『Vanity Fair』に書いた言葉を借りるなら、「ラングがもっとも狡猾にファッションを手引きするデザイナーのひとりであることは明らかだ。ミニマリストでありながら、往々にして、もっとも不純な考えを呼び起こす暗示の力を隠し持っている。背徳を感じさせることのないミニマリズムは単なる偏狭に過ぎないことを知っている。ラングの世界にはいつも熱い風が吹いて、やってはいけないのにやってしまう何かの匂いを運んでくる」。この点に関して『Artforum』に掲載されたラングの説明は、「取り立ててセクシャルにするつもりはないが、もちろん、ほかの多くのことと同様、セクシャリティはファッションの一部だ。僕にとって大事なのは体によくフィットする服を作ることで、新しいセックスアピールを感じさせるセンシュアリティを作り出すのは、素材、形状、色使いだ。『セクシャルなものを作ろう』と思って仕事を始めるわけじゃない。僕の仕事は、セクシーな魅力を振りまこうとするファッションとはまったくの別物だ」。とは言え、1990年代からラングについて書かれた記事で、最小の要素でエロティシズムや秘密めいた欲情を呼び覚ますラングの手法に触れていないものは、ほとんどない。『New York Magazine』は、「ラング自身は非常に穏健な人物のようだったが、彼の作品には、ほとんどヒッチコックを思わせる暗くフェチ的な性質、倒錯との境界が一貫していた」と書いている。

テクノ(Techno)

ラングがコレクションショーに使うのは、1990年代の爆発するようなテクノサウンドだった。反復的で挑戦がむき出しの電子ミュージックは、ラングの美学の反映だ。『New York Times』の批評家スピンドラ―は『New York Magazine』にこう語っている。「消防士の服に付いてるような長い反射テープが使われてるんだけど、最初は袖の中から垂れて、次は袖の上、ジャケットの裾という具合に、すごく反復的なの。テクノミュージックと同じ。アーティストが自分の視点を突きつける方法ね」

実用性(Utility)

ラングが作る服は装飾的ではなく、実用的だ。ル・コルビュジエ(Le Corbusier)が建築する住宅は「住むための機械」だったが、そのファッション版だ。過多なものは削ぎ取られ、明快な実用性だけがある。ラングのデザインには常に目的があった。例えばベルクロは完璧なフィットのためだし、無関係に思われたストラップのおかげでコートの肩を絞ることができる。米国陸軍のM69防弾チョッキをベースにした1999年秋冬シーズンのコートは、ポケットをはじめ、さまざまな物を携帯できる仕掛けがあっただけでなく、内側に取り付けたストラップで体からぶら下げることもできた。ラングの作る服がファッションのプロたちに愛される理由は、「主張することなく体になじみ、痛快なほどに厭世的な美と機能性を兼ね備えているからだ」と2000年の『Vogue』は解説している。

ウィーン(Vienna)

ラングはオーストリアの首都ウィーンで生まれたが、スイスアルプスに近いザルツブルクの町で祖父母に育てられた。10歳のときに父親と継母が暮らすウィーンへ戻ったが、18歳になると家を出た。父たちと暮らした時期はとりわけ惨めだったらしく、家を出て以来父とはまったく口を利いてないという話だ。その後もラングはウィーンに住みながらバーテンのような雑用で生計を立て、1970年代に地元の裁縫師たちに自分の服を注文するようになった。やがて知り合いにも服を作るようになってデザイナーとしてのキャリアが生まれ、ウィーンでブランドを立ち上げた。1986年、アートとデザインにおけるウィーンのモダニズムを紹介する「Vienne 1880–1938: L’Apocalypse Joyeuse」展が開催されたが、参加を認められたファッション デザイナーはラングひとりだった。同展には非常に大きな影響力があったから、これを契機に、ラングのキャリアは世界の舞台へ躍り出る。「ウィーンの住民は非常に複雑で気難しい反面、態度には何か狡猾なところがある」とラングは『Artforum』に語っている。「楽しさとは縁のないところだ」

メラニー・ワード(Ward, Melanie)

1992年から2005年までの13年間、ラングはセントラル セント マーチンズ出身の英国人スタイリスト、メラニー・ワード(Melanie Ward)との緊密な協同作業を通じてブランドに磨きをかけ、イメージを作り出した。二人のパートナーシップは非常に強く深いものだったから、ワードをラングのミューズと呼んだ人も多い。カルバン・クラインやジル・サンダーとも仕事をしたワードは、しばしば、90年代のミニマリズム ムーブメントを牽引した人物のひとりに挙げられる。

アダルト指定(X-Rated)

何はともあれ、ラングのショーは挑発的なことで有名だった。オーガンザやナイロンなどのファブリックを透かして体が見えたし、レザーのハーネスのようなボンデージ要素にも事欠かなかった。

Y2K

近年のファション界では1990年代後期から2000年代初期にかけての美学が話題になるが、言及されるものの多くはラングの作品と強く結びついている。テクニカルあるいはありふれたファブリック、無駄のないシルエット、必要な要素にすっきりと絞り込んだテーラリング、ちょっとした色のアクセント、デザイナーデニム、ヴィンテージ加工などはすべて、ラングのレガシーから今に続く影響が現代のファション言語に返り咲いたものだ。

時代精神(Zeitgeist)

プリントTシャツ、スリムなカーキパンツ、軍服から着想したアウターウェアなど、ラングのデザインは非常に大きな影響を与えた。だがそれ以上に、世紀の変わり目にあった世界のえも言えぬ雰囲気を捉えていた。確かに彼は人気の出る服を作ったが、同時に、簡潔な美しさの誕生に貢献したのである。それは当時としては斬新なものだった。

Kristen Owen、ニューヨークのHelmut Lang 1999春夏コレクションにて 写真:Fairchild Archive/Penske Media via Getty Images

Kūya Okai、ニューヨークのHelmut Lang 2024春夏コレクションにて 写真:Victor VIRGILE/Gamma-Rapho via Getty Images

現在は、1990年代のミニマリズムが再生した「クワイエット ラグジュアリー」とゴープコア熱がとりわけラングの影響を感じさせる。あるいは、2020年にレアード・ボレッリ=パーソン(Laird Borrelli-Persson)が『Vogue』に書いたように、「過去10年、マルタン・マルジェラとヘルムート・ラングほどファッションに大きな影響を及ぼしたデザイナーはいない。あくまで自分に忠実であり続けた二人だ。数年前はあまりに見え透いたラング信奉が広まって、愕然とするほどだった。ラングへのオマージュであれラングからの借用であれ、それらは現在も続き、美学をはるかに超える領域まで拡大している。モデルのキャスティング、ショーの形式、テクノロジーの利用、ブランドの構築、広告までが、かつてラングが起こした革新に目を向けている」のかもしれない。

Max Berlingerはブルックリンを拠点とするフリーランスライター。ファッション、テクノロジー、カルチャーが重なり合う領域をテーマに執筆し、『ニューヨーク タイムズ』、『GQ』、『ロサンゼルス タイムズ』などに寄稿している。InstagramTwitterでフォローできる

  • 文: Max Berlinger
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: February 9, 2024