測定不能な
建築にまつわる対話

私たちと空間の親密な関係を
4人の専門家が語る

  • インタビュー: Oana Stănescu
  • アートワーク: Gavin Park

人は誰でも、最初は傾いだ視線から空間を体験する。子供は大人サイズの障害物に溢れた世界で暮らしている。声、匂い、味、手触り、感覚…、空間の基本的な知覚が紐づいた場所は、体が成長につれて小さくなり、しかし時のなかで大きな記憶へと膨らんでいく。残るのは、私たちが過去の空間に抱いた「感じ」だ。

建築家は、測定できるものとできないもの、知識、記憶、文脈と切なる願望の果てしない光景の中へ歩を進め、足跡を刻んでいく。建築の専門家であるイフェ・サレマ・ヴァナブル(Ife Salema Vanable)、ダイアナ・ジーン・サンドヴァル・マルティネス(Diana Jean Sandoval Martinez)、オマール・ガンディ(Omar Gandhi)、ゼイナ・コレイタム(Zeina Koreitem)の4人が、それぞれの仕事における過去と現在と未来の出会いを語った。

オアナ・スタネスク(Oana Stănescu) 建築家、Oana Stănescuデザイン スタジオ創設者

イフェ・サレマ・ヴァナブル(Ife Salema Vanable) 博士候補生、i/van/able is Old Hand 創設者およびリーダー

ダイアナ・ジーン・サンドヴァル・マルティネス(Diana Jean Sandoval Martinez) タフツ大学美術史および建築学部建築研究 ディレクターおよび准教授

オマール・ガンディ(Omar Gandhi) 建築家

ZKことゼイナ・コレイタム(Zeina Koreitem) 建築家。ジョン・メイ(John May)と共に、ロサンゼルスの建築設計スタジオ「MILLIØNS」共同創設者

オアナ・スタネスク:子供の頃に夢見た理想の家は、どんな家でしたか? 公共空間と私的空間を含め、成長期を過ごした場所は、みなさんの設計にどのような影響を与えましたか?

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イフェ・サレマ・ヴァナブル(以下ISV):

私の場合、家庭というのは常に変化しうるコンセプトなの。夢というほどではないけど、子供の頃はずっと何年も、頭の中で筋書きを書き換えながら、自分が暮らす家を空想してた。育ったのは、グランド コンコースのちょっと外れのブロンクス。ジェローム アベニューと198thストリートが交差する区域にあった6階建てアパートで、5階の最初の部屋だった。地下鉄4系統の高架のすぐそば。きれいな木張りの床で、これは足にトゲが刺さるのが大変だったけど、どの部屋にも窓があって、火災用の非常階段を上っては屋上で夕陽を眺めたものよ。

12歳のとき、同じブロンクスの、俗に「J」アパートと呼ばれてる高層住宅ビルの28階へ引っ越したの。空中のアパートは、まさに、私の想像が自由に羽ばたく世界だった。本を読んで、私たちの部屋から上の階へ通じる螺旋階段の空想に耽ったわ。ずっとずっとその場所で暮らして、色んな手を加えてリフォームする空想。別の場所じゃない。「J」アパートの28階にいて、アパートの中を変えていく。私は今でもそういう空想をするし、いつでも、すでに存在しているものに興味があるのね。

仕事の面では、ある種、バロック的な過剰に惹かれる傾向があるわ。私が成長期を過ごした空間は、複雑で、矛盾してて、信じられないくらい用途が定められていて、決定的に平凡だった。だけど、共有領域の一部であるはずなのに内輪的な親近感がある、ってことが珍しくなかった。黒人の場合、大勢が共有する関心や疑問や運営から、色んな具合に私的な場所が生まれることがよくあるの。

結局、何であれブロンクスで大きくなった背景が、今の私に刺激や影響を与えてる。設計には多重性や密度や同時性を考えるけど、それもこれも、子供時代の遊びや、動的で素朴で逞しくて美しいブロンクスがインスピレーションの源よ。

ダイアナ・ジーン・サンドヴァル・マルティネス(以下DJSM):

私たち家族は、カリフォルニア州リバーサイドの大きな家に住んでたの。母はミッション様式のその家が大好きだったけど、両親とも白人じゃないから、家主は売りたがらなかった。それでも、母にとっては夢に見た理想の家だった。知り合いの誰かに「手に入らないものは余計に欲しくなる」と言われたらしいけど、その通り、母は家主が提示した売値以上の額を申し出て、6人いる兄弟姉妹のほとんど全員から借金して頭金を払ったのよ。私はカレッジに入学して家を出るまで、ずっとその家で暮らした。

私の小学校では、ひどい雨降りでない限り、ランチは外で食べることになってた。食堂代わりの場所は「フラミンゴ パビリオン」という名前で、片側にコンクリート ブロックの壁があって、フラミンゴとキーウィの絵が描いてあったわ。反対側は、低い擁壁で、植物が生い茂った丘と区切られていて、草むらをいつも野兎が駆けてて…。ちょっとノスタルジックになっちゃったけど、今でも戸外教室や中庭が大好きで、その最初の記憶がフラミンゴ パビリオンなの。

『空手キッド』を観てからは、ミスター・ミヤギの庭にすっかり夢中。あの映画は、1985年当時、絶大な影響があったのよ。私の夢はあの頃からちっとも変わってない。まあ多少は変わった部分もあるけど、私が欲しいのは基本的にさんさんと降り注ぐ太陽の光、本、私の子供たちが子供たちでいられる専用の場所、きちんと片付いたキッチン。それ以外に必要なものはほとんどない。

オマール・ガンディ(以下OG):

僕の記憶に刻まれてるのは、1994年の、初めてハイスクールへ登校した日。迷って最初の授業に遅刻したのを、まるで昨日のことのようにはっきり覚えてるよ。そのアート スクールは1960年代の建築で、直線的な設計の中央に曲線的な講堂があって、後に追加された一連の建物が橋や通路で連結されてた。僕はすっかりその建物の虜になったんだ。空間と建築をそういうふうに捉えたのは、確実に、そのときが初めてだった。

僕が育った家庭は、昼間は父が仕事へ行って、救急の看護師の母は夜勤だった。帰宅した母が眠らなきゃいけないから、日中の家は耐えがたいほど静かでね。対照的に、従兄弟やおじやおばが山ほどいる一族だったから、普段着の集まりが日常茶飯事。当時みんなの家はたいてい小じんまりしてたから、大勢が集まって食事をするにしても大きな食卓はないし、泊まるにしてもベッドの数が足らない。でもあるものでどうにか間に合わせて、結局は賑やかな無礼講になる。僕はそういう両極にすごく敏感になって、その感覚が空間を設計するときのツールになってる。

ゼイナ・コレイタム(以下ZK):

奇妙だけど、私の場合は忘れちゃったか、単純に、理想の家について思いめぐらす贅沢がなかったわ。レバノンの内戦時代に生まれて、普通の中産階級の家庭で育ったから、夢の家は想像の範囲内になかったの。内戦、2度の湾岸戦争、2006年のイスラエル侵攻、その後も地元の武力勢力の戦闘が後を絶たなくて、否応なく何度も引っ越した。だから状況に適応するしかなかったし、身の回りの空間に対する意識はほぼ、反応というかたちでしかなかった。幾分なりとも生活が安定したのは、北米へ来てからよ。

生まれはベイルートだけど、成長期を過ごしたのはクウェートなの。夏はパリの叔父の家で過ごしてた。まだそんなことができる頃はね。でも第一次湾岸戦争になって、クウェートからベイルートへ逆疎開! サナエの近くに住んでた父方の祖母の家に同居した。たくさんの時間をバルコニーで過ごしていたけど、バルコニーは逃げ場でもあったし娯楽の場でもあった。2階だから、メイン ストリートの眺めが最高でね。祖母はバルコニーから通り越しに近所の人たちに挨拶して、買い物もバルコニーから済ませるのよ。藁で編んだ籠をロープにぶら下げて通りへ下ろすと、野菜売りの人が野菜を入れてくれるから、籠を引き上げて、野菜をチェックして、代金を籠へ入れて下ろす。全部バルコニーからできてしまう。

ベイルートでは、バルコニーは居間の延長なの。ほとんどの家がそうだったけど、祖母の家にもエアコンがなかったから、夏のあいだ、夕方と夜はバルコニーで過ごして、昼間はアパートの中へ熱気が入らないように扉を閉める。短い期間だけど、冬のあいだはそれと逆。バルコニーが一種の気候調整の役割を果たしてた。でも、家の中の温度を調節するという日常の繰り返しが、社交と地域の繋がりを保つ機能もはたしていたわ。

その後トロントで4年暮らしてから、パートナーのジョン・メイ(John May)と暮らすためにカリフォルニアのトパンガへ引っ越してきたの。ジョンは建築家。トパンガは、ロサンゼルスのすぐ北、海岸からサンタモニカ山脈を上った渓谷の中にあって、もともとはトングヴァ族の土地だった。トパンガの風景と気候でレバノンを思い出したわ。本当の意味で地域共同体が残っている数少ない場所のひとつだし、アーティストやミュージシャン、ライター、急進的な思想家や、自分で農業をやる人たちが集まってる。

トパンガは、幾分なりともコミュニティとしての暮らしを実験できる場所なの。私たちの地所にはもともと家屋がふたつあって、そこに大きさの違う居住棟をふたつと、共有のアトリエ、図書館、洗濯場、菜園ふたつ、それから私たちがやってるMILLIØNS用のオフィスを付け足した。そういうふうに「距離感を保ちつつ共有する」実験には常に満足感があったけど、パンデミックになってから特に素晴らしさを実感してる。私たちはいちばん親しい人たちと一緒に、自主隔離しながら、それでも野外で一緒に食事をできる。もちろん注意は必要だし、完璧な暮らしには程遠かったけど、コニュニティの一部だった。全員が互いを助け合う暮らし方で、パンデミックの辛さが軽減されたわ。だから今では、私たちの家と土地をもっと明確に理解することができるし、建築家はもっと共有生活の方向へカルチャーを推進する必要があると、以前にも増して確信してる。

今回の体験を考えずに家庭生活を想像するなんて、私にはほとんど不可能だわ。事務所で手掛けるデザインにも同じ影響が表れて、温度、新鮮な空気、日光、それらが家庭生活に及ぼす作用に関して、現代以前の文化の知恵に目を向けてるの。機械的な建築システムは気候変動の大きな原因だから、私たちの設計では機械を使わない、少なくともできるだけ使わない方法を探す。同じアメリカでも北東部や、北ヨーロッパでは、そういう考えは思いつかなかったでしょうね。ベイルートとトパンガ、両方の気候を体験したからこそ生まれた発想よ。

パンデミックを契機に、どんな面で自分の仕事を問い直しましたか? ここ2年のあいだに、自分の仕事で変えたいことを把握できましたか?

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ISV:

私には疑問しかない。今までもこれからも、知的好奇心に取り組むことが私の仕事の指針。世界的なパンデミック、特に、黒人の命を抹殺する国家ぐるみの企みに反乱が巻き起こってから、私がいちばん驚いてるのは、残念ながら、率直な問いかけではなくて、往々にして還元的な言葉が使われるようになったことだわ。「BIPOC(黒人、先住民、有色人種)」なんて略語が大手を振ってるのはどうして? 「社会的公平」って言葉が利用されるのはどうして? 特定の人たちと特定の役割がどういうふうに「必要不可欠」と見なされて、それは搾取の形態にとって何を意味するのか? 仮に秩序立った対応を考えたり、正当性を証明したり、頭に思い描くためだとしても、どうしてそんな修辞的な手管が意味を持つのか? 本当に変化が起こっているのか、それとも危機と悲劇的な結末のサイクルが続いているだけなのか? その意味で、この2年はほとんど変化していない。微妙なニュアンス、相違、特有性に関するもっと深い思索と配慮を、どうすれば達成して実践できるか? 私の仕事では、これからもずっと、そういう問いかけを出し続けていかざるを得ないわ。

パンデミック以来、空間の修復、改良、修正、変更が行なわれてきたけど、多くの点で、空間そのものの根本は変わらない。変わったのは、集まりに対する人々の考え方、物理的な距離の想定と取り組みと実践よ。人によっては、空間を共有することをとても恐れるし、大多数の人は、自分たちの空間を物理的に変更することはできなくて、場所の使い方や身の守り方の考え方を変えることで最善を尽くしてる。そういう自覚の高まりは残るかもしれない。どうかな?

DJSM:

私は、現在は建築の仕事はしていなくて、建築史を教えてる。私にとっても、パンデミックはたくさんのことを変えたわ。でも新しい問いかけが生まれたというより、これまでいかに多くのことを当たり前に思っていたか、それをつくづく自覚したの。対面授業が当然だなんて、今後二度と考えない。学生たちを引率して実際の建物を見学に行くのが教職のいちばんの楽しみのひとつだったけど、それもここ2年できないまま。今は対面で再開された授業もいくつかあるし、学生たちはきちんとマスクをしてて、その点はとても感謝してる。でも、マスク無しで学生の表情を読み取れる喜びを、もう決して当たり前とは思わない。

パンデミック以来、窓を開けるという単純な喜びも、改めて感謝するようになったことのひとつだわ。フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)は風通しをとても大切に考えてたの。新鮮な空気が結核の治療に効果をもたらすと信じて、病院に関しても、最大限の通風を得られる独立棟様式の熱烈な提唱者だった。治療に必ずしも効果があったわけではなかったけど、確かに彼女には一理あったわ。現在の病院は密閉されてる。病院の中には密閉が必要な場所もあるだろうけど、今回のパンデミックを体験して、新鮮な空気の大切さを教えられたんじゃないかな。私がバークレー大学にいた頃は、パッシブ冷暖だけで1講座になってたくらいだし、ぜひ復活させる必要があると思う。今でもあるのかな。

OG:

コロナのせいでリモート スタジオでも仕事には差し支えないことが証明されたけど、リモートには魂がないし、正直言って、やる価値はない。僕は、笑ったり、討論したり、一緒に仕事をできるスタジオが大好きだ。個人の注文住宅部門に関しては、人生設計を変更して、「明日」より「今日」を大切にするクライアントが増えたね。健康面や年齢面の不確定要素から、夢の実現を急ぐ人が多くて、僕たちの仕事はすごく忙しくなってる。その他に、地域にとって非常に重要で大規模な屋外の公共プロジェクトを終わらせたけど、利用者が格段に増加してるのは、これまでにも増して、みんなが集いたがってることの証明だ。

ZK:

私たちは、2020年の3月に、事務所から引っ越すという思い切った一歩を踏み出したの。最初はバーチャルでの進め方を学習しなきゃいけなかったけど、時間が経つにつれてもっと関心を持つようになったのは、物理的な仕事場とバーチャルな仕事場の関係を継続的に見直すこと。

私たちは模型作りや材料のテストやチームと一緒に仕事をするのが大好きだから、物理的な仕事場は残しておきたかった。だけど過去には固執しないし、オンラインでもきちんとした共同作業をできると確信してる。だから今は、リアルとバーチャルの比率を試してるところよ。その意味では、なんだか、アマチュアに戻された感じ。リアルの仕事場で学んだこと、これまでに築いた仕事のやり方…、全部を一回忘れなきゃいけなくて。今の時点で解決策を見つけたという人がいたら、正直なところ、私は疑うね。パンデミックがエンデミックになったら、事業の大小を問わず、バーチャルとリアルのハイブリッド モデルをうまく機能させる方法を理解できるまでに長い時間がかかると思う。

パンデミックが始まったとき、自分たちの地所の中に事務所を作ることにしたの。それから、生活と仕事の両方の場というアイデアを考え始めた。若いデザイナーたちのために住み込みの研修をスタートする計画もあるし、いわば仕事の中核みたいな場を作ろうとしてる。場所が足らなかったら、ロサンゼルスで適当な場所を見つけるのは簡単だけど、あくまで柔軟な一時的なものでいいと思う。仕事をする「場所」を考え直すようになったし、二酸化炭素排出量を減らすことも考えるようになった。今は、地所の中を歩き回って事務所やワークショップへ行くのが、私たちの「通勤」よ。

あなたの質問に簡単な答えはないと思うけど、私たちの仕事で遭遇したエピソードを話してみるわね。今手がけてるプロジェクトのひとつが、ニューヨーク州シラキュースにあるエバーソン美術館の東ウィングの改築なの。もともとはI・M・ペイ(I.M. Pei)の設計で、建築は1968年。最初の予定ではレストランを新設して、新しく所蔵品に加わった陶磁器で後援者たちが食事をすることになってた。とても思い切ったアイデアだけど、食器類を寄贈したルイーズ・ローゼンフィールド(Louise Rosenfield)の出した条件がそれだったの。陶磁器のコレクションを全部寄贈する代わりに、それを新しいレストランで使わなくてはいけない!

ところがパンデミックが始まると、後援者たちが持ち上げたりあちこち触ったコレクションのカップやお皿で飲食物を提供するのは、事実上不可能になってしまった。その結果、プロジェクトの段階と範囲がすっかり変わって、もっと難しい問題を抱えることになった。食べ物や飲み物をどういう方法で提供するか? 盛り付けて提供して洗うまでにどんなスペースが必要か? それらがサービスの点で何を意味するか? コロナ禍の中で、どうすれば当初のコンセプトを達成できるか? 去年はそれを一から考え直す必要があったわ。

建築は過去に根差していますが、往々にして、未知の未来で機能するものです。現在と不確定な今後を、仕事の上でどう調和させますか?

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ISV:

私は何よりも先ず建築を設計し、考え、作ることを訓練されてるし、現在は博士課程で建築史と建築理論をやってるの。私の仕事は、あらゆる意味で、歴史意識に支えられてきた。変化を成し遂げるよりは、変化に対抗できる条件、持ちこたえるもの、決して予測しえない時間の影響に対抗して時間を超えるもの、すべてに直面してなおかつ残るものにいちばん好奇心をそそられる。住宅、住宅を規定する条件の歴史、歴史上さまざまな形をとった欲求との関係を問いかけることが、私の仕事よ。住宅には必ず、なんらかの内包すべき必要性と欲求がある。

DJSM:

この質問は、少なくとも私が考えるに、建築史を教える教師と実際の建築家ではとても違った意味を持つんじゃないかな。私が教える学生たちを見てて強く感じるのは、彼らが常に環境に関する不安の中で生きてきたことなの。気候変動、コロナ禍、人種差別にまつわる暴力の蔓延…、そういうすべてが実存的な不安にまったく新しい意味と次元をもたらしている。でもあの世代はただ不安がってるだけじゃなくて、私には想像もできなかったことをやろうとしてるわ。建築事務所のSHoPのスタッフが労働組合を結成しようとしているのには驚いたし、どんどん生まれてる協同タイプの建築の多さにも感銘を受けてる。グループによる設計とかコラボレーションによる設計は、もはや、単なる流行語じゃない。そんな世代が不確定な未来に取り組んでくれると思うと、ホッとする。質問の答えにはなってないね。でも、建築が過去に根差してるってことには同意見。

OG:

正直に言うと、僕たちはまだパンデミックの最中だから、一生懸命に前を目指して突き進んでる状態だ。何が学べるかは、多分、パンデミックが終わったときにわかるんじゃないかな。とりあえず目下は、善良な人々のために素晴らしい空間を作ろうと努力してる。

ZK:

私たちの事務所の仕事はどれも、歴史にどっぷり浸かってる。手がけるプロジェクトの大多数はとても歴史的なアーカイブから始まって、3Dモデリング、3Dプリント、CNCミリングとか、設計や実験に使う技術や材料の製作の過程でアーカイブから離れていくの。どのプロジェクトでも例外なく、ある時点で歴史がコンピュータを通って、もちろんまったく新しいものになって吐き出されてくる。

歴史が未来と矛盾するとか対立するというふうには、考えないわ。その正反対。歴史は未来を考えるための媒体よ。未来の建築はすべて建築の過去から引き出される、と言えばいいかな。ノスタルジーは、大抵の場合、実際の歴史と当時の社会経済的な現実を完全に歪曲するものだから、常に注意してる。だけど過去を懐かしむ気持ちと過去を忘れてしまう両極のどこか中間点に、歴史を映しつつ歴史にとらわれない世界観があると思う。

仕事以外に、どんな創造的な活動をしていますか? アイデアの源は? どうやってアイデアを枯渇させないようにしていますか?

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ISV:

休息。休息は創造に必要な積極的努力だと思うから、すごく重視してる。

DJSM:

難しい質問ね。私の場合、執筆が創造的な捌け口だわ、きっと。持てる創造性のすべてを注ぎ込んでる。Rhinoを使って、子供たちと理想の家を設計することもあるよ。今娘が凝ってるのは猫の顔形の高層ビル、息子が凝ってるのは天辺にクレーンがのってる黄色い家。ふたりとも空想が逞しくて、大笑い。いつも驚かされるわ。

OG:

僕は料理するのが好きだから、最近自分で設計した自宅にも素晴らしいキッチンを作ったよ。ようやく使い始めたとこだけど、事態が収束し始めたら、みんなを食事に招待するのが楽しみだ。もちろん旅行も好きだし、コーヒーを片手にただブラブラするだけでもいいから、早くそういう日が来てほしい!

ZK:

(机とデスクトップにあるアーティストや思想家や物を、順不同で列挙)
ジョセフ・フィリベール・ジロ・デ・プランゲイ(Joseph Philibert Girault de Prangey)が19世紀に撮影したレバノンの写真、ルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf Von Laban)とダンサーたちのアスコナ、『Pan-Arab Modernism 1968-2018: The History of Architectural Practice in the Middle East』、レインボーカラーのスリンキー、ジュマーナ・マンナ(Jumana Manna)、父さんが手作りしたポケット ナイフ、メリエム・ベナーニ(Meriem Bennani)、ファラ・アル・カシミ(Farah Al Qasimi)、『The Color of Pomegranates』、タウバ・アウエルバッハ(Tauba Auerbach)、スーダン・アーカイブズ(Sudan Archives)、マイルス・デイヴィス(Miles Davis)『スケッチ オブ スペイン』、アル・ナザー(Al Nather)、ガエターノ・ペッシェ(Gaetano Pesce)の花びん、イーテル・アドナン(Etel Adnan)、アラブ イメージ財団法人、ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)、リリアン・シュワルツ(Lillian Schwartz)、ジェレミー・ブレイク(Jeremy Blake)、ジョーン・ディディオン(Joan Didion)、モナ・ハトゥム(Mona Hatoum)、サルマン・トゥール(Salman Toor)、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)、サロウア・シューケア(Saloua Choucair)、ワリッド・ラード(Walid Raad)、アンジェラ・デイヴィス(Angela Davis)『アンジェラ・デイヴィスの教え: 自由とはたゆみなき闘い』

何に希望を持っていますか?

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ISV:

私には子供がいるし、楽観主義ではあるんだけど、究極的には備えを整えておくことが大切だと思う。そういう警戒感は役にも立つし、問題にもなりえるけど。いつか警戒を解ける日が来るといいわね。

DJSM:

順不同で、私の夫、学生たち、きょうだい、子供たち。

OG:

果てしなく楽観的な息子。母の勇気と献身。もう引退してていい年齢なのに、コロナ患者を受け入れているトロントの病院の救急で、今でも忙しく働いてる。

ZK:

希望を持ってる人が身の回りにいるのはとても良いことだけど、私自身の感情に希望の場所はないわね。レバノンでは非常に実際的である必要に迫られるし、希望そのものは実用性と結びつかない。希望で食料や薬を買うことはできないもの。私は悲観論者じゃないけど、レバノンで育つと、不幸な出来事が待ち構えてる、心の準備をしておく必要がある、って感覚が消えなかった。

毎日ジョンと一緒に仕事をして、カリフォルニアの海の近くのコミュニティで仲間と暮らして、ハーバード大学と南カリフォルニア建築大学の素晴らしい学生たちを指導して、有能で寛大な人たちとコラボして、友だちがいて…、それで私はハッピー。どっちへ行けばいいかわからない時でも、私たちは書いて、名前をつけて、想像して、世界を見ることで、混乱を理解して先へ進める。その事実に希望を感じると言えばいいかな。そうやって世界を表現していく行為には素晴らしい恍惚感があるわ。自分の外へ抜け出せるから。

Oana Stănescuはルーマニア出身の建築家。ニューヨークで同名の設計事務所を運営している

  • インタビュー: Oana Stănescu
  • アートワーク: Gavin Park
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: March 15, 2022