死の顔をあなたは
カメラに収めたか?
パンデミックの渦中にあって、パンデミックを見せる写真はどこにもない
- 文: Zoé Samudzi
- アートワーク: Skye Oleson-Cormack

編集者からの注記および内容に関する警告:以下のエッセイは文化、社会、医療に関する論評であり、病気の視覚面を見せることも隠すこともできる視覚イメージの在り様を考察しています。死と病気のほか、新型コロナウイルスが身体と感情に及ぼす影響の描写が含まれています。
1.
「目に触れないように意図されたものを、どうすれば悼めるというのだろう?」 視覚研究者キンバリー・ワニータ・ブラウン(Kimberly Juanita Brown)がZoomで聴衆に問いかけた言葉だ。南北戦争で北軍に参加した黒人兵士の存在が歴史資料や写真のアーカイブには相対的に欠如していることを、2021年2月11日の基調講演でブラウンは指摘した。アーカイブに保存されていなければ、間違いなく存在したにもかかわらず意図的に見えなくされたものの画像を思い描いてみるほかない。場面、瞬間、人、感情を捉えたはずの画像を。
2020年2月29日にワシントンで新型コロナウイルスによる初めての死者が出たというアメリカ政府の発表から、1年あまりが経過した。容赦なく増加を続ける死者数、政府の怠慢と無能、日常生活の混乱の最中で、国民がどうにか呼吸を続けようとした一年だった。今や一部の人しか感染しないインフルエンザ ウイルスと同じように、いつかこの新型コロナウイルスが抑止されて伝染病学の一端に収まったとき、私たちは視覚イメージなしにどうやって大きな混乱に陥った感染初期の年月を思い起こすのだろうか? だから私は、見えざるものを掘り起こそうと思う。とりわけ、このパンデミックをどのように見せるか、あるいは見せないかを規定した制約と、それ以前から写真撮影に課されてきた倫理を考察する。
新型コロナウイルス感染への対応を記録した写真はある。ソーシャル ディスタンスをとって食料品店に並んだ行列、駐車場に設置されたドライブ スルー方式の検査施設、職業斡旋所や食料配給所の外で何時間も待ち続ける無数の人々など、あらゆる種類の行列が撮影されている。だが新型コロナウイルス感染そのものを写した写真なら、マスクなしでロックダウン措置に抗議する右翼のデモ隊や、あちこちの州議会議事堂へ押しかけた武装集団や、新年を迎えたわずか6日後にワシントンの連邦議会議事堂を襲撃した白人集団の暴動の写真より、はるかに混沌を極めたはずだ。明らかに欠落しているのは、大量の死そのものを捉えた視覚イメージだ。歴史学者サラ・エリザベス・ルイス(Sarah Elizabeth Lewis)は昨年、「死んだ人々と死にかけている人々が意味する衝撃を、余すところなく見せる視覚イメージが存在しないことで、私たちは何を失っているだろうか?」と問いかけた。
わずか1年で死者50万人超という米国の新型コロナ犠牲者数を容易に把握できないのは、私だけではないらしい。50万人という数を、例えば『ワシントン ポスト』は身近な測定方法に換算して、1台あたり51人の乗客を乗せた13.7メートルの長距離バス9,804台が153キロメートルにわたって並んだのと同じと表現し、『デイリー ビースト』は大都市の人口と比較している。だが、病院で愛する人の最期を看取ったり葬儀に出席して「きちんと」死者を悼み、妨害なしに死と関わることができれば、これらの死は多少なりとも理解できるものになるのだろうか?

エピデミックが始まって間もない頃のイタリアでは、人工呼吸器をつけて喘ぐ患者、無人の教会で何列にも安置された棺に神の加護を祈る神父、疫病が大流行した中世を思わせる人気のない旧市街の石畳の街路など、新型コロナの死を伝える媒体が現れた。だがルイスが指摘するように、患者のプライバシー保護法が医療現場を見せることを妨げるのが現状であり、私たちに与えられるのは、急速なグラフの上昇をレポートする巨大なデータ構造、「連日何千人もの死者」と告げる見出し、オンライン上のインタラクティブな追悼記事だ。「この病気で予期され、意図され、加速され、不平等に分配された死亡率を、どのような言葉で問い、歯止めをかければよいのだろう?」とクリスティーナ・シャープ(Christina Sharpe)は慨嘆する。今回ほど大規模な集団的喪失は数値化しやすい。数値に転換するほうが、意味を把握するよりはるかにたやすい。世界的規模での人間の苦痛は、写真で見せようとすると不穏なほど曖昧になる。
このような掴みどころのない現象は、相対的に隔絶された状況で死を悼まざるをえないときに生じる。ジュード・ワンガ(Jude Wanga)が体験した父のオンライン葬儀では、慰め合う抱擁に「ピクセル化」が取って代わり、それでなくても辛い精神的苦痛が「まとまりのない、とぎれとぎれの」悲嘆として続いたという。ワンガのように長期にわたって悲嘆反応が続く状態は「複雑性悲嘆」と呼ばれ、トラウマの一種と診断される。物理的に近付くことを妨げる障害は、ある意味で、死を見届ける力をも奪ってしまうのだ。
スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)は、有名な著書『他者の苦痛へのまなざし』で、戦争写真は「特権的な人々や単に安全圏にいる人々が無視したがる物事を、『現実』あるいは『もっと現実』にする手段」だと主張している。だが死者への配慮から、戦争カメラマンは顔を撮影することを控える。死者の尊厳を守るという現代の職業倫理だが、おそらく、一種の道徳的、精神的迷信でもあるだろう。目は心の目、死者の顔を写せば魂の抜けた亡骸が永遠に長らえるというわけだ。
重要な集団記憶を形成し重要性を記すうえで視覚イメージが役立つというソンタグの主張に対し、ジョン・バーガー(John Berger)は短編エッセイ『Photographs of Agony』で異論を唱える。バーガーによれば、極度の苦痛を描写したものとの遭遇は「著しい恐怖心を引き起こし」、行動を掻き立てる義憤ではなく、行き場のない絶望を引き起こすという。現在のパンデミックの場合、写真が喚起すべき義憤とは、ウイルスの存在そのものを否定する人々や感染防止の配慮が足らない人々が十分に真剣な態度を持つようになることだ。悲惨な視覚イメージは、感情に訴えて、私たちの悲嘆を支えてくれるだろうか? それともバーガーが非難するように、私たちは「希望のない無力な」生き方を再開して、目にしたものを消化吸収するのだろうか?
私たちは、同じ基準では計れないふたつのものを同時に伝達し、理解し、内面化しようとしているのだ。片や、新型コロナウイルスが引き起こす病気と苦痛に満ちた死の残酷なイメージ。片や、どれも同じく非人間的な情報、完全に理解することはほぼ不可能な入院者数、感染者数、死亡者数の計算と予測。その中間で宙吊りになっている。では、理解に繋がる媒体として、何が残されているのか? 社会的集団として証人となり、死者を悼むうえで、私たちはどのような責任を果たすべきなのか? 私たちは、人間性を奪う数値化の方法に従うことなく、トラウマの規模を伝達することができるのか?
2.
2020年3月の初旬、イタリアの俳優ルカ・フランツェーゼ(Luca Franzese)は、姉のテレサが死亡後に新型コロナ感染を診断されたとオンラインで訴えた。葬儀社が遺体を引き取りに来ていなかったため、その後36時間近く、彼を含む家族全員が姉の遺体と共に自宅隔離されることになった。Facebookへ投稿した動画で、彼は涙ながらに、しかし激しく、政府当局が自分たち家族を見捨てたと糾弾している。現地の議員フランチェスコ・エミリオ・ボレッリ(Francesco Emilio Borrelli)は、新型コロナウイルス感染者が自宅で亡くなったイタリアで最初のケースであり、処理の手順が確立されていなかったことが理由だと説明する。フランツェーゼが投稿した動画が拡散した後、ようやく遺体は葬儀社に引き取られた。埋葬には家族はひとりも参列しなかった。
戦争や飢饉であれ、陳腐な日常であれ、写真に焼き付けられたイメージは「動かぬ証拠」だ。経験論を実践して、発生した事実を実証する究極の証拠資料となり、議論の余地なく「百聞は一見にしかず」の威力を発揮する。連合国軍がナチスの強制収容所を解放した後、いくつものカメラマン集団が現場に駆けつけたことは驚くにあたらない。ホロコースト産業として大量殺戮が行なわれた強制収容所の残虐は、彼らが撮影した写真によって世界が目にするところとなった。だが、まったく修正されていない視覚イメージのほうが珍しいポスト真実の時代には、動かぬ証拠であるはずの写真といえども、判断基準としては問題を孕む。セルフィー写真が「本物」の表現だと本気にされ、ソーシャルメディアを介して瞬く間に世界に拡散する現在、新型コロナ感染に関する非公式な証言は、通常であればフォトジャーナリズムが占めるべき視覚的語りの領域へ侵入した感がある。
それらの証言報告は、大きく分けてふたつの種類がある。ひとつは情報提供型の、どちらかと言えば規格的なセルフィーやTikTok動画で、風邪やインフルエンザやアレルギーと新型コロナ感染を見分ける症状の違いを教え、水分補給やうつぶせ寝、解熱にはイブプロフェン系ではなくアセトアミノフェン系の服用といった症状管理をアドバイスする。新型コロナ感染時や入院時の描写、記憶、視覚イメージを共有し、自宅で延々と回復期を過ごしている人たちはなかなか消えない症状を証言し、鼻カニューレで酸素投与を受けている患者に付き添う人たちは患者の病状報告を更新する。セレブがワクチン接種や退院や回復を投稿することもある。R&Bシンガーのジェレミス(Jeremih)は、シカゴの病院で人工呼吸器を装着されるところまでいったが、数週間後に回復したと報告している。
34歳の氏名不詳の患者がインドのハイデラバードから投稿した動画のように、とりわけ痛ましい証言もある。彼は治療の怠慢を訴え、人工呼吸器を外されるのが早すぎて心臓が止まりかけていると訴えた。「さようなら、お父さん、さようなら、みんな」の言葉でビデオは終わる。そしてビデオが拡散したときには、すでに亡くなっていた。
もうひとつの種類の証言報告は、新型コロナウイルス感染から学んだ教訓だ。こちらのほうが不安を掻き立てる。代表的なのは世界各地の現場で働く、疲労困憊した医療従事者の視覚イメージだ。英雄的使命感に燃える医療従事者もいる。人口の大半が利用できない病院の中から、恐ろしいほど不十分な保護具で働く医師や看護師が、時にはマスクの痕が消えない顔で圧倒的な患者数を説明し、政府からの効率的で安全なリソース供給を求めている。ロサンゼルス郡の医師スコット・コブナー(Scott Kobner)は、カリフォルニア州、中でもロサンゼルスで急拡大する感染に立ち向かう救急医療の戦場をライカのカメラで捉えており、『ロサンゼルス タイムズ』は、コブナーの写真を南北戦争や第一次大戦時代の医学写真の系譜に位置付けた。ただし、戦時下の殺戮と比べて残酷なむごたらしさは目につかないし、それは現在に至るまで新型コロナ特有の側面だ。数は少ないが、新型コロナウイルスを作り話だと考えていた人たちが改心して、苦い証言をすることもある。種類は色々だが、実際に感染してみて新型コロナウイルスの存在を信じた、とソーシャルメディアで告白するのが基本フォーマットだ。亡くなった患者の気持ちを、医療従事者が代わりに伝えることもある。
飽くことなく視聴者との関わり合いを求めるインフルエンサー文化では、例えばジェームズ・チャールズ(James Charles)が思慮に欠けるパーティを謝罪し、検査で陽性が判明したタナー・フォックス(Tanner Fox)が不安を吐露するなど、Z世代スターが動画ブログを利用することで真摯な告白が安っぽくなってしまうところがある。ソーシャル メディアのプラットフォームは、何かしらユニークな「ブランド ペルソナ」を形成させることで、自己表現を緩やかな社会的統制に繋ぎ留める。そのようにしてデジタルな相互作用と親密性の条件が設定される結果、大手プラット フォームのユーザー多数は、アルゴリズムに基づいた流布と視聴者の反応で自分の記事の共有度を判定するほかない。ウクライナ出身の有名なフィットネス インフルエンサーだったドミトリー・ストゥズク(Dmitriy Stuzhuk)は、トルコ旅行中に新型コロナウイルスに感染し、10月に入院先で死亡した。33歳だった。もっとも多数の「いいね!」がついた最後の投稿では、堂々たる体躯を誇示している。前例のないエピデミックの現状で、強烈に自己主張した視覚イメージはストゥズクが初めてではない。入院して8日目、上半身裸になった彼の肌は小麦色だ。ベッドに坐り、鼻と口を呼吸器で覆われたまま、逞しく筋肉が発達した片腕を頭の後ろへ曲げて平然とポーズをとっている。現実離れしているとしか言いようがない。長いキャプションでは、ウイルスを無視していたことを認め、当時100万人を超えたフォロワーたちに新型コロナは「キツい」と警告している。奇妙なほど臨終の告白みたいだが、この時のストゥズクは真剣ではあったものの、まだ楽天的で、自宅で治療を終えるつもりだと書いていた。ふたつ目の画像では、右手でピースサイン。キャプションは「病状は安定している」

3.
ヨーロッパと米国が新型コロナウイルスに蹂躙される一方、アフリカ大陸は一見「難を逃れている」かのようで、西欧社会は混乱し、苛立った。時を経ずして、アフリカ人には「免疫」があるとか、ウイルスは高い気温に弱いといった説が流れ始めた。トランプが先ずヨーロッパ連合、次いで英国からの渡航を禁止したのは明らかに中国嫌悪の恐怖症が引き金だったから、その点は不快だが、実質的な公衆衛生措置ではあった。一方で、アフリカと感染ホットスポット各所間の移動禁止が効果的な措置であることは、見落とされた。
今回のパンデミックは1980年代のエイズとさまざまに類比されているが、その視点は紛れもなくアメリカ中心だ。ヒト免疫不全ウイルスの初期の伝播がコンゴの植民地的交易と輸送網沿いに発生したように、新型コロナウイルスは一方通行の自由な移動によってアフリカへ運び込まれた。ウイルスに国境は関係ないが、自分で勝手に国境を越えるわけではない。医療人類学者アディア・ベントン(Adia Benton)は、「ウイルスは体に運ばれて移動します。『特定の』人体、『特定の』人々が、自由に国境を超えて移動している事実を認識する必要があります」と釘を刺す。
往々にして、写真は目を注ぐべき欠落を指すために利用される。現在のパンデミックでは、政府の怠慢による人的損失に光りを当てようとする。ただし、1980年代にエイズが引き起こした恐慌を歴史的な類似として使うのであれば、私たちは「犠牲者」の考え方を問い直す必要があるし、カメラマンと写真を見る観衆の両方の視線が社会周縁の少数者を囲い込んだことを思い出さなくてはならない。誰でもヒト免疫不全ウイルス感染の可能性があったにもかかわらず、もっとも多く撮影されたのは、先ず圧倒的に、黒人、クィア、貧窮者、ドラッグ使用者、あるいはこれらが組み合わさった人たちだった。苦しみを目にすれば、苦しんでいる人たちへの感情移入が起こるはずだが、ブラウンの言葉に戻るなら、写真による人道主義は自分と目撃した苦しみのあいだに感情的な距離も生じさせる。いみじくも『Regarding the Pain of the Other(他者の苦しみを見る)』と題したエッセイで、「死者の視覚イメージを目にすると、私たちは直ちに視覚的な折り合いをつける…排斥される集団の性質を読み取り、人類家族の外側から内側へ入りたがっている人々として判断する」とブラウンは書いている。
西欧世界と南アフリカを除くアフリカ大陸でパンデミックの第一波が一致しなかったため、西欧世界は「あっち」は「こっち」よりひどいというお馴染みの安心感を持つことはできなかったが、ワクチンを巡る植民地主義によって従来の不均衡はすぐに立て直された。過去にエボラウイルスが猛威を振るったときには、ストレッチャーで死体を運ぶ防護服姿の作業員、病院の隔離区画で死を待つ患者、遺体の消毒と焼却など、多くは侵害的でもあった写真が広く流布され、アフリカは「死と伝染病の発祥の地、暗黒大陸」という陳腐な定義に具体的な説得力を与えた。新型コロナに限って死者や患者にプライバシーと尊厳を認め、撮影すべきではない、撮影する前に被写体の同意を得る必要があるという主張は、フォトジャーナリズムの偽善と自惚れ以外の何ものでもない。
新たに登場した新型コロナウイルスは、効果的かつ否定できないほど明確に、人種差別的資本主義とネオリベラリズムという双子の危機を露呈した。過去何十年にもわたる社会政策は、人種別に公共住宅を分離し、医療を民営化して雇用に紐づけ、集団による交渉を弱体化して労働保護を解体した挙句、突如として、不当な低賃金で蔑ろにしてきた人々が実は社会に必要不可欠な労働力であったことを理解して「エッセンシャル ワーカー」という美しい呼び名に格上げした。この国では、ラテンアメリカ系、黒人、先住民、障害者、慢性病患者、高齢者、貧困層が死ぬままに捨て置かれる。残虐の原発部と根源は、常に、ヨーロッパの近代性にあった。だがフォトジャーナリズムの目標が、距離を置いて離れたところから私たちの道徳律を投影し、回顧できる視覚イメージであるなら、そんなフォートジャーナリズムから欠落している視覚イメージ、すなわち事実上の自画像のほうが、はるかに多くを伝えるはずだ。
感染から回復した人は罪悪感を感じることもあれば、反対に優越的な満足感を持つことがある。また、警察による殺人動画など、特定の種類の苦痛を消費することで一種の快感や社会的個人的必要性を得ている人々の場合は、他者の苦しみを目撃して、「自分は例外」という思い込みを持つこともある。自分は同じ運命は辿らない、辿るはずがないという個人的な信念やあからさまな宣言へと、恐怖が形を変える。多数の写真が出回り、たやすく見られるようになって、私たちの意識や共感は高まるどころか、まったく逆方向へ向かった。どこの誰が犯したものであれ、残虐行為が私たちの目に触れない、あるいは簡単に見られないことはほとんどない。情動を喚起し、凝り固まった社会のヒエラルキーや容認される苦しみの固い殻を破砕できる視覚イメージも、ほとんどない。表現できない惨状を表現し、死者に対する正当かつ十分な追悼を助けようとする視覚資料はまったくない。ひとつとしてない。
Zoé Samudziは、『Art in America』、『The New Republic』、『The New Inquiry』、『Jewish Currents』、その他に記事を執筆しているライター
- 文: Zoé Samudzi
- アートワーク: Skye Oleson-Cormack
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: April 16, 2021

