燃え続ける87歳
フランク・ボウリング
抽象表現絵画の名手は
今も最高傑作を目指す
- 文: Kovie Biakolo
- 画像提供: Frank Bowling、Hauser & Wirth

フランク・ボウリング卿の目標は、87歳の今も変わらない。それは偉大であること。アーティストになることをどう定義するにせよ、ボウリングはアーティストになるべくして生まれたとしか思えない。
「私は世界で最高の絵画を描きたい」と、ボウリングはロンドンの自宅から伝えてきた。卓越を追求することは、彼にとって、単なる欲求ではない。60年以上にわたる創作を続け、現在存命する一流アーティストのひとりとして地位を確立せしめた、自己鍛錬に他ならない。
すでに長いキャリアを築いた後の2019年、英国のテート美術館で回顧展が開催されたのを機にボウリングは新たなレベルの評価を得て、2020年には現代アート ギャラリー「Hauser & Wirth」と契約を結んだ。同じく2020年には、エリザベス女王の誕生日にナイトの爵位も授与された。「私は競争心が強いし、アーティストとして、ひとりの人間として、旅したすべての場所から影響を吸収した先駆者だと自負している」

Frank Bowling『Swimmers』(2020年) コラージュ キャンバスにアクリル、アクリル ジェル、ファウンド オブジェ。229.3×326.4×8cm。冒頭の画像:Frank Bowling 『The Pearl Poet’ in London』。協力:Frank Bowling。撮影:Benjamin Bowling。
Hauser & Wirthは、5月に、このガイアナ出身英国人アーティストの展示をニューヨークとロンドンで同時開催した。とても象徴的だ。というのも、ボウリングはニューヨークとロンドンに強く影響されてアーティストとして成長し、キャリアを通じて両都市にアトリエを持ち、初めて抽象表現主義に目覚めた60年代以来、それぞれのアート カルチャーに刺激を受けてきたからだ。同展は、半世紀以上にわたるボウリングの創作中、特に抽象表現主義および抽象表現主義と密接な関連を持つカラーフィールド ペインティングへの貢献に焦点を合わせている。展示作品には、1971年の『Texas Louise』や1984年の『Enter the Dragon』を含め、もっとも人気の高いカラーフィールドの大型作品が含まれている。いずれも、縮尺、光度、物質性に対する独自の実験を試み、即興を繰り返したシリーズの傑作だ。『The Financial Times』は同展を「ボウリングのみならず、ブラック アートに世界が目を注ぐ機会」と書いている。
私は光でガイアナを描いていたことに気づいた。ガイアナは常に私の創作に存在していた
同じく展示作品の「Polish Rebecca」は、2013年にニューヨークで開催された国際近代美術展「Armory Show」で27万5,000ドルで売却され、初めてボウリングに大きな商業的成功をもたらした有名な作品だ。この絵画の歴史は興味深い。ボウリングは1971年にこの270cm x 335cmの大作を制作したことを40年以上失念し、2012年にロンドンの郊外に住む友人の屋根裏で再会したというのだ。ボウリングは作品による自己発見を目指して生涯を過ごしたアーティストであり、絵画と同様に逸話でも、自己、他者、世界を探究し続けたことが明らかだ。「Polish Rebecca」は、1967〜1971年のいわゆる『Map Paintings』期に描いたアクリル画で、濃淡のパープルが広がる背景の中心に、南米の輪郭がグリーンでハイライトされている。これはとりもなおさず、ルーツのガイアナ、すなわち、習作を通じて問い続けた生い立ちの事実とインスピレーションの源を指している。

Frank Bowling『Texas Louise』(1971年)。キャンバスにアクリル。282×665cm。写真:Charlie Littlewood。協力:Hales Gallery。
このように、ボウリングの作品には一貫して自身の過去への問いかけがある。「私の目はロンドンの光の影響を受けていると思っていた時期があった。ところが1989年にガイアナへ帰ってみて、たじろいだ。ガイアナの風景を目にして、私が作品に描く光は、それまで考えていたものとは非常に違っていたことを理解した」とボウリングは言う。「私が見た透明な靄は、おそらく、東風が空へ吹き上げる水分だったのだろう。50代になって初めて、私は光でガイアナを描いていたことに気づいた。ガイアナは常に私の制作に存在していたのだ」
ボウリングは、1934年、当時英国領植民地だったガイアナの北部中央にある町バルティカで生まれた。その後、ボウリングが6歳のときに一家は北東部の港町ニュー アムステルダムに移り、ボウリングは19歳を迎えた1953年に単独で英国へ移住した。その時、胸には別の野望を抱いていた。「私はどうあっても詩人になるつもりだった。詩を書きかかった。詩こそ、私自身について私自身に語りかける最善の方法だと感じていた」
そんな彼がロンドンのホワイトチャペル ギャラリーを通りがかったのは1956年頃、まだ英国空軍の兵役に就いていたときだ。偶然だった。ニュー アムステルダムで店を開いている裁縫師の母のために、ボタンとレースを買いに出かけただけなのだから。
「通りかかったら、ちょうど『This is Tomorrow』展をやってた。ポップ アートの始まりだったと思う。それまでの人生で見たことがないものだったし、ああいうものがアートになりうるとは思ってもみなかった」

Frank Bowling『Swimmers』(2020年) コラージュ キャンバスにアクリル、アクリル ジェル、ファウンド オブジェ。229.3×326.4×8cm。
今や語り草の『This is Tomorrow』展は、建築家であり美術評論家でもあったテオ・クロスビー(Theo Crosby)の企画だった。アーティスト、建築家、音楽家、デザイナーなど、多分野のコラボレーションによって現代生活を紹介するというコンセプトから、1956年の画期的な試みは実現した。英国でもっとも偉大なキュレーターに数えられるブライアン・ロバートソン(Bryan Robertson)が参加したことから、ブリティッシュ ポップ アートの先触れとして、美術史に刻まれた展示である。
アーティストで建築家だったキース・クリッチロウ(Keith Critchlow)との出会いもあり、『This is Tomorrow』展はボウリングの内面に火花を散らして、詩からビジュアル アートへの転向を促した。「特に絵画を知ってからは、もっと自分を使っているように感じた。体を使って、題材をキャンバスの表面で表現した」。ボウリングは率直に述べている。「机に座って、感情と思考を白紙の上で表現するより、もっと包括的な行為に思えた」
前衛画家としての評価は、早くも、ロイヤル カレッジ オブ アートで学んでいた時期から生まれつつあった。当時すでに現れていた図形要素および象徴と抽象の組み合わせが、現在はボウリングのシグネチャだ。1961年に学校からの奨学金でニューヨークを訪れたボウリングは、作品に自由を見出した。自分が自由を必要としていたことに初めて気づいた。「ロンドンでは植民地独立後のディスクールから生じる何らかの抗議アートを期待されていたし、私自身、そのつもりになっていた時期もある」。この言葉は告白でもある。つまり、ボウリングは、周囲で進行する事象にかかわらず、彼自身の作品を作りたかったのだ。彼は常に、行き詰ったときでさえ、自分のアートを通して自分自身を理解することを切望した。

Frank Bowling『Piano to Guyana』(2004年) キャンバスにアクリル、アクリル ジェル、ファウンド オブジェ。マルフラージュ。223×213cm、230×219.6×10.5cm(フレームを含む)。写真:Thomas Barratt。
1966年、ボウリングは正式にニューヨークへ拠点を移した。具象要素は消え、モダニズムへの傾倒が強まり、抽象主義に転向したことは、『Map Paintings』期に見られるとおりだ。「いかにキャンバスに絵具を塗るか。それを私は考え出してきたと思う。従来のやり方を拡大する方法を実験してきた。こぼしたり、垂らしたり、擦りつけたり、浴びせたりして、すべての結果を吟味してきた」。制作における試行錯誤は当然であるかのように、ボウリングは言う。「私は状況を転換して、常に先頭を行く立場でありたかった。いつも他のアーティストたちがやっているよりもう少し上を目指して努力したし、今もそうだ」
パンデミックによる隔離が続いた昨年は、仕事も楽しみも引き続きロンドンのアトリエで行った。家族が一緒にいてくれるから、自宅にいるように寛げる。本当はもっとアトリエにいたいのだが、医者は賛成しないだろうと言う。

Frank Bowling『Wobbly V with Bunches』(2020年)。キャンバスにアクリル、アクリル ジェル。マルフラージュ。188.3×255×5.5 cm。
「パンデミックが始まったとき、絶対に必要でない限り旅行も通勤もするなと指示されたが、私にとってはアトリエへ行くことが絶対に必要だ。私の歳ではアトリエに2〜3時間いるのが普通の人の1日分に相当すると医者は言うが、その2倍はやれる。そういうふうに生まれついているんだ。アトリエにいると楽しいし、アトリエはそういう場所だし、アトリエにいるときだけ、老いていく肉体の苦痛を忘れる」
ボウリングのように、長いキャリアの後で評価が急激に再燃するアーティストは珍しい。彼の変化に富んだ人生と多作なキャリアについて、すでに数多くの質問がなされたことを考えると、私はこう質問せざるをえない。「ご自分について、これまで誰にも教えていないことはありますか?」。答えは…
「実は13か14の頃、私は優秀な探偵になれる、いや、優秀な探偵になるだろうと思っていた。10代の最初には、それがいちばんの望みだったよ」
ボウリングは14歳のときに想像した探偵にはならなかったが、生涯にわたる創作で、自分を探し出す技に熟練した。
Kovie Biakoloは、カルチャーとアイデンティティをテーマとするライターであり、多文化研究者。現在は、コロンビア大学のリップマン特別研究員
- 文: Kovie Biakolo
- 画像提供: Frank Bowling、Hauser & Wirth
- 翻訳: Yoriko Inoue
- Date: August 27, 2021

