マーク・ジェイコブスの偉大なる執着
アメリカンドリームを生きる稀代のデザイナー
- 文: Thora Siemsen

マーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)とその夫チャーリー・デフランチェスコ(Charly Defrancesco)がニューヨーク郊外に借りているのは、ジュリアン・ムーア(Julianne Moore)が主演するトッド・ヘインズ(Todd Haynes)監督の映画のセットかと見まごう1959年に建てられた牧場スタイルの家だ。ふたりの終の棲家はそこから車で15分。フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)が設計した由緒ある海辺の家は、マナーシング島の北端に建つ。だがわが家も急がば回れということか、去年の春にふたりが結婚し、夏を過ごした家は今も改修中だ。当面、カップルは仮住まいに暮らしているが、57歳の生粋のニューヨーカー、ジェイコブスはそれが気に入っている。最近の彼はドラァグの主婦スタイルにハマっていて、時折この人生はじつは映画なのではと首をかしげる。デザイナーの見る世界では、記憶はジャンル別に分類可能で、「今」はかりそめの魔法の時間だ。想定外のことが起きれば、手にした脚本に修正の印が抜けていたせいにすればいい。彼の親友にはソフィア・コッポラ(Sofia Coppola)やラナ・ウォシャウスキー(Lana Wachowski)など、数人の映画監督がいる。ウォシャウスキーは彼を、ギリシャ神話の登場人物シーシュポスを縮めたシシーと呼んでいて、ふたりはその神話をテーマにしたおそろいのタトゥーを入れている。ただ問題は、ジェイコブスからいまだにオーディションの候補者気分が抜けないことだ。
「たぶんこれは癖だろうね」。彼は言う。「誰かに感心したり、逆に相手に感心してもらいたいと思ったりすると、きっとこの人は僕にこういう人間であってほしいんだろうな、と考えて、その人物になろうと自分を変えはじめる。そんなことしたくないよ。けど、『カメレオンマン』のゼリグが発動しちゃうんだ。相手が望んでいることを想像して、そのとおりになれば自分は安全だし、好いてもらえる。そういうところはどうしても変わらなくてね。おまけに、芯から大切に思っている人が相手だとちょっぴりそれがひどくなる気がする。その人を失うのが怖いから、自分を抑えて、会話を面白くしようとか、話をしっかり聞こうとかしちゃって。自分自身でいるというのは僕にとって大仕事なんだよ。人が望んでいるだろうと思う人物になるよりもね」
ジェイコブスがみずからをカメレオンと評するのは、彼がこの世界で切り取ってみせる妥協のない人物像と齟齬がある気がずっとしていた。だが、彼がショーマンなのは間違いない。昨年の春、ブロードウェイの明かりが消える前、デザイナーが送り出したダンサーとモデルの群れは、パークアベニュー アーモリーの教練場を照らす幻想的な光のなかを軽やかな足取りで通り抜けていった。アンサンブルの振り付けはキャロル・アーミタージュ(Karole Armitage)。ジョージ・バランシン(George Balanchine)とマース・カニンガム(Merce Cunningham)のために踊り、そののち80年代を通してみずからのカンパニーを率いたニューヨーク ダウンタウン出身のバレリーナだ。マドンナ(Madonna)の「Vogue」の振付師であり、ジェイコブスが偏愛するミュージカルのひとつ『ヘアー』の振り付けでトニー賞の候補にもなったアーミタージュが、ショーの観客が座るカフェ テーブルの前で、最初のスポットライトを浴びた。そして観客の眼前に繰り広げられたのは、ジェイコブスの解釈によるファッション史の壮麗な絵巻物。それは懐古趣味を巧みに迂回していた。あたかもディーリー プラザでジャクリーン・ケネディ(Jacqueline Kennedy)が着ていた服の行方は、国立公文書館ではなく、ブラックホールとホワイトホールをつなぐワームホールだったかのように。ウールのダブルフェイス素材のストレート ワンピースやコートをまとったモデルたちが道を空けるそこには、ブラック レザーのオペラ グローブをはめ、パステル カラーの下着姿に真珠の首飾りをつけてシャドウ ボクシングに励むダンサー。大方の評は、長らくニューヨーク ファッション ウィークの大トリをつとめてきたジェイコブスは、観客の心に最も無邪気な期待感をかき立てるウィークの鼓動の中心でもあるというものだった。
自分自身でいるのは僕にとって大仕事なんだよ。人が望んでいるであろう人物になるよりもね
ショー後の数か月は、より不安な時間だった。Marc Jacobsのランウェイ コレクションのファブリックはイタリアで調達されていたが、イタリアはヨーロッパで最初に移動制限措置を発表し、全国的なロックダウンに入った国だった。こうした影響で、ブランドは遅れが出た秋冬ラインの製作を削減し、作品はニューヨークで発表されたあと、パリのショールームに送られた。3月には、どちらの都市にも自宅待機令が発令された。日用の必需品以外を扱う小売店は実店舗を閉鎖し、猛スピードでばく進していたファッション界は、にわかに不振に陥った。4月、英国版『Vogue』誌の編集長、エドワード・エニンフル(Edward Enninful)とのインタビューがライブストリーミングされ、そのなかでジェイコブスは翌年の春夏コレクションをデザインする可能性は低いことを認めた。「美という意味で、自分にとって人生最後の仕事になってもいいような作品に打ち込まないと」と今日の彼は言う。「だって何が起きるかわからないから」
昨年、故郷ニューヨークで緊急事態が宣言されると、ジェイコブスはホテル ザ マーサーにチェックインした。ハリウッドの姉妹ホテル、シャトー マーモントと同じく、ソーホー地区に建つこのロフト スタイルの高級ホテルもまた、長期滞在にうってつけだ。ジェイコブスと愛犬のレディとネヴィルは接客係の費用抜きでプライバシーを手に入れた。抜きといえば24時間ルームサービスも抜きだった。最低限のスタッフだけになってしまったホテルで、3組の滞在客のひとりとして過ごした2か月間というもの、厨房は閉鎖されていたからだ。滞在中、ジェイコブスは自分の隔離中の日常をうっすら脚色した短編映画『A New York Story』に主演していた。監督を務めたのは彼の個人秘書であるニック・ニューボールド(Nick Newbold)。役作りのため、ジェイコブスはスモーキー アイのメイクの腕を磨き、ウィッグを試着した。ニューボールドはその成果をYouTubeに投稿した。
たった1日のうちに、ジェイコブスはスパンコールのついたComme des GarçonsのショーツとStüssyの設立40周年を記念してコラボしたTシャツで少年のような姿を見せたかと思うと、『フォッシー』の舞台に登場しそうなダンサーや自暴自棄な主婦になってみせたりもする。彼の瞳はアイシャドウの色合いによって澄んだハシバミ色にも緑色にもなる。薬物を断って何年にもなるのに、回復した中毒者のオーラが熱っぽくきらめく。ドラッグが創造性を高めるという意見にはまったく賛成しないが、薬物に耽溺した歳月がまるっきり機能不全の闇に失われてしまったわけでもない。「酒を飲んでクスリをやってた頃の自分はすごくクリエイティブだったと思うよ。それをやめた今はもっとクリエイティブだと思うけどね」と彼は言う。ジェイコブスはよく笑い、まったく説教ぶることはない。「僕は『アドバイス』という言葉を使わないんだ。アドバイスが好きじゃないんでね。アドバイスはしないし、耳を傾けることもあまりないな。みんながそれぞれの経験を伝えあうほうがいい。何かピンとくれば、それが自分にとって意味のあることだとわかる」
私は彼に訊ねる。あなたの経験から言って、デザイナーはお互いに熱心に助け合うものですか? 「僕は心から尊敬するデザイナーたちと、なんらかの形で付き合えているから、すごく運がよかったと思ってる」と彼は答える。「存命中のデザイナーで僕が誰よりも尊敬してるのはプラダ夫人なんだけど、彼女と知り合えたし、夫人はじつに親切で気前がよくて、それにとても親しくしてくれる。ほかにもエディ[・スリマン](Hedi Slimane)やラフ[・シモンズ](Raf Simons)みたいな、僕が素晴らしいと思う作品を生み出した大勢のデザイナーたちと出会った。そのなかの誰にも、軽んじられたことは一度もない。カール[・ラガーフェルド](Karl Lagerfeld)だってとても敬意を払ってくれた。ただ、そういう人間関係を築いているデザイナーがたくさんいるかといったらわからないな。たぶんデザイナーには強い自意識もあるからだろうね。全然偉ぶってない人は、すごく用心深いんだと思う。彼らが神秘的なのは、ひとつには誰からも距離を置いていることなんだ」
だが、ジェイコブスのとる戦略は違う。自分を惜しみなく差し出して、なにかを失うことはまったくない。「ルドヴィック・デ・サン・サーナン(Ludovic de Saint Sernin)って男がいてね。彼の作品をすごく気に入ってる。ギョーム・アンリ(Guillaume Henry)のPatouでの仕事も好きだな。Eckhaus Lattaもいい。ヴァージル(Virgil)を尊敬してるよ。彼のやってきたこともね。彼に対してすごく妙な態度をとるデザイナーもいるけど、僕はただ、自分の若い頃をよく思い出す。保守派の連中に『それはファッションじゃない、そんなふうにショーをやるもんじゃない、こんなのコレクションじゃない』って言われた頃をね。デザイナー、特にある世代のデザイナーは、若いクリエイターの仕事を見ると、知らず知らず、自分たちがされた通りのことをやってしまう。そこに陥るのはすごく危険だ。こっちは自分のやり方、こっちは間違ってるって決めつけて考えるようになるのはね」
ザ マーサーのスイートに籠もり、ほとんどの時間をどこよりも安全な孤独のなかで過ごしたジェイコブスは、昔の自分が戻ってくるのを感じはじめた。ドキュメンタリー映画『Martin Margiela: In His Own Words(マルタン・マルジェラ:みずからを語る)』を観ながら、孤高のベルギー人デザイナーの幼い白日夢に自分を重ねた。ふたりのデザイナーは誕生日が同じで、どちらも祖母から裁縫の手ほどきを受けた。ルーヴェン出身のファッション デザイナーは、母が父の店でウィッグを売る姿を見て育ち、マンハッタン生まれのジェイコブスは、両親がタレント エージェンシーのWilliam Morrisに出勤する姿を見送った。後者の白日夢が翼を広げたのは、父が潰瘍性大腸炎で亡くなり、母の双極性障害が悪化したあとのことだった。家族で最年長だったジェイコブスは、理不尽にもふたりの弟妹の親代わりの役を果たすことになった。「母は精神病院を出たり入ったりでね。父が亡くなったあとすぐ再婚して、最悪の義父がやってきた。僕らきょうだいは何度かの離婚と結婚をくぐり抜けた」ジェイコブスは言う。「そのおかげで、僕は現実の代わりにもうひとつの現実を創り出せるようになった」
10代の頃、ジェイコブスは父方の祖母とニューヨークの西70丁目に落ち着いた。祖母は彼の想像力の熱心な庇護者だった。スタイリッシュに暮らす彼女は、Bottega Venetaのローヒール パンプスを履き、孫の天分を福音のごとく近隣に広めて歩いた。ジェイコブスはまもなく祖母を見習ってニードルポイントを身につけ、セントラル パーク ウエスト近くに聳えるアールデコ調のツイン タワー、マジェスティック アパートメンツのふたり暮らしの部屋で、そこに並ぶ美しい調度品の守り手となった。祖母は血のつながりにあまり関心がなく、そのことがふたりの絆をいっそう特別にした。「家族だからって誰かに会わないといけないと感じるのは、僕にはしっくりこないんだよ。それは祖母も同じだった」とジェイコブスは振り返る。さらに、祖母には抑圧的なところがこれっぽっちもなかった。ニューヨークはふたりの庭で、いずれにせよ彼はこの街によってその英才を磨かれることになる。

ジェイコブスが16歳になった1979年、アッパー ウエスト サイドのウェイザー(Weiser)家が所有する最先端のファッション ブティック、Charivariが4店舗目を彼の住む近隣にオープンした。『Vanity Fair』誌に没後掲載された最後の紹介記事でイングリッド・シシー(Ingrid Sischy)が書いているように、「ウェイザー家が築いたファッションの一時代は、私たちが生きている今―、巨大な世界的ブランドと高価格商品が主役の、あくまでも均質で保守的ですらあるファッション シーンとはかけ離れていた」。ウェイザー一族は起業家としてすべてを賭け、その台頭も終焉も借金に終わった。そして台頭と終焉のあいだに、彼らはハイ ファッション ビジネスを生み出し、商品に縫い込まれた同じVersaceの名前に群がる顧客を引き寄せた。CharivariはYohji Yamamotoの北米初の取扱店であり、10代のマーク・ジェイコブスの最初の雇用主でもあった。
ジェイコブスのキャリアはストックルームから始まった。「働かせてほしいと必死で頼み込んだよ」と彼は言う。「そして言うだけの働きをした。Charivariは、僕の愛する作品を創った偉大なデザイナーたちがぜんぶ揃う特別なショップだった。いつの間にかそこは、僕にとって自分が崇拝する、しかも自分と同じくファッションを愛する人たちに出会える場所になっていた。そして僕は質問をすることを覚えた」。あるときなど、ストックルームで働くこの早熟な少年は、Charivariの常連だったデザイナーのペリー・エリス(Perry Ellis)に進路について相談し、ハイスクール オブ アート アンド デザインを卒業したら、パーソンズ美術大学に進むようにと背中を押された。そしてこの近所のブティックで、学生だったジェイコブスは最初の恋人である、店の客だった30代のロバート・ボイキン(Robert Boykin)と出会う。
ボイキンは西62ストリートの伝説的クラブ、Hurrahのオーナー経営者だった。1976年にディスコとして開業し、数か月後、Studio 54が近くにオープンしたためロック クラブに生まれ変わったが、エッジの効いた雰囲気は健在だった。もともとディスコだった面影を残すダンス フロアを囲む鏡張りの壁が、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)のミュージック ビデオ「Fashion」にちらりと映っている。10代にしてボイキンの恋人となったジェイコブスは、おずおずと華やかな遊び人たちの群れに加わった。目がくらむ世界だった。「ニューヨークの歴史を―、誰が誰で、どうしてそうなって、シーンがどんなだったか聞きたくないなんてありえない」
ボイキンを通して、ジェイコブスはアメリカ南部特有の暮らしも学んだ。「彼はアラバマ州モービルの出身でね。僕は16で彼は34だった。こっちはなよなよしたユダヤ人の少年、向こうの家族はユダヤ人とは全然縁がなかった。僕はいろいろ悩みを抱えてたけど、彼らはまったく悩んだりしてなかった。この人たちは折り合っていかないといけないんだろうなと思ってたのは僕のほうで、本人たちはほんとにあっけらかんとしてた。息子の選択を受け入れてたんだろうね。彼の父方の家族はすごく優しかったな。釣りや鹿狩りに連れて行ってくれたこともある」
ジェイコブスが鹿を?
「いや、撃ち方は習ったけど、動物は撃てなかった。そしたら『やれやれ、ニューヨークのあの連中みたいに動物を撃つのは間違ってるとか説教するのは勘弁してくれよ』って。僕は『大丈夫、僕は撃てないけど、あなたがたは好きにすればいいよ』って答えた」
ボイキンとジェイコブスの交際は、ボイキンがエイズの合併症で1988年に亡くなるまで9年間続いた。ふたりの関係は他人にはときに不可解に見えても、ジェイコブスには明快だった。「こんな妄想をしてたんだ。これは新しい映画の僕の役柄で、次のシーンでマークは恋人を作り、ふたりは肉体関係をもつんだって。自分がロバート・ボイキンの年若い恋人を演じる魅惑の脚本を思い描いてたってわけ。ところがいざ現実になってみると、僕は親密さに馴染めなかった。彼は僕が望むとおりの生き方をさせてくれた。僕にとって、父親のような存在だった。兄であり、親友であり、保護者だった」
ふたりが付き合っていたあいだ、ジェイコブスはひときわ意欲に満ちていた。エリスの勧めに従い、彼はファッション デザインを学ぶためにパーソンズ大学に入学する。「めちゃくちゃ優等生だった」と彼は振り返る。「学校ではふたり友達ができた。たぶん、クラスで一番やる気があったのがトレイシー・リース(Tracy Reese)と僕じゃないかな。よく一緒に宿題をしたけど、要求された分量なんかはるかに超えちゃってね。エイブラムズ先生からスケッチ12枚が課題に出されると、トレイシーと僕は36枚描くってな具合に」。ジェイコブスは1984年に卒業した。首席となった卒業制作は祖母と一緒に作ったオプ アートの手編みセーターで、デザイン スチューデント オブ ザ イヤー賞とチェスター ワインバーグ アンド ペリー エリス ゴールド シンブル賞を受賞した。その成功はさらに、以後長くビジネス パートナーとなる、高級百貨店バーグドルフ グッドマンの元バイヤーで、当時はReuben Thomasの重役だったロバート・ダッフィ(Robert Duffy)との出会いをもたらした。ダッフィはジェイコブスの卒業と同時に、その名前を冠したラインを立ち上げる。
「若い頃の僕は、とにかくすべてに貪欲でね。興味を覚えたもの、あるいはそこから派生したものはなんでも経験したかったし、知識を蓄えたかった」とジェイコブスは語る。祖母のお供をしてバーグドルフ グッドマンに通い、夜の街で麻薬の宴に興じた彼には、タイミングをとらえる特異な才能があった。1987年にCFDA ペリー エリス ニュー ファッション タレント賞を受賞したことをきっかけに、ジェイコブスとダッフィはそれぞれPerry Ellisでウィメンズ デザイン部門の副部長と部長に就任した。1992年、ソニック ユース(Sonic Youth)が、雑誌『Sassy』のインターンだったクロエ・セヴィニー(Chloë Sevigny)を俳優としての初仕事に起用して、新曲「Sugar Kane」のミュージック ビデオをEllisのショールームで撮影したが、そのビデオにはジェイコブスが1993年春のプレタポルテ コレクションのショーを開催する様子が映っている。7番街風味のビーニー帽、蝶柄のクロップトップ、ベビードールドレス―。コレクションが披露され、伝統の破壊者というジェイコブスの評価が広まったのち、彼はEllisを追われた。解雇によって思いがけず手にした資金を、ジェイコブスとダッフィはMarc Jacobs International Company, L.P.の設立に注ぎ込んだ。こうしてグランジのブランドは定着した。
「この頃じゃなんでも分類される」とジェイコブスは言う。「僕の若い頃は、みんなレコード店のBleecker Bobに通っていた。僕もそこでB-52’sとかX レイ スペックス(X-Ray Spex)とかの10代の頃入れ込んでた音楽を買ったものだけど、大人になってタワーレコードができると、なんでもかんでも分類されるようになった。ほら、あの小さいプラスチックの板みたいなものに『オルタナティブ』とか書いてあるよね。思うんだけど、なんだって他のなにかのオルタナティブ―つまり代替なんじゃないの? 僕はこれは『グランジ』だとか、全然考えなかった。単にそのとき気に入った音楽でしかなかった」彼の名前を冠したラインの最初の広告はシンプルだった。彼のドレスを着て、ロンドンのステージに立つキム・ゴードン(Kim Gordon)。撮影はユルゲン・テラー(Juergen Teller)だ。広告はスタイリストのジョー・マッケンナ(Joe McKenna)の雑誌『Joe's Magazine』に掲載された。限定発行のこの雑誌が発行されたのは6年のあいだをおいて2度だけ。その創刊号のカバー デザインには聖母マリアが使われている。

その広告が、ジェイコブスのテラーに対するアプローチの仕方を決めた。キャンペーンの括りは緩やかで、写真家に白紙委任状が与えられた。ジェイコブスはこう説明する。「僕らのうちのどちらかが、興味深い誰かを見つける。僕らの世界の人だと思える人をね。そしてその人が居心地のいい状況を探す」。ときには居心地の悪さのほうに関心が向かうこともあった。たとえばジェイコブスとテラーはどちらも、ブランドの広告のためにみずから服を脱いでいる。デザイナーはメンズ フレグランスBangのために脱ぎ、写真家は俳優のシャーロット・ランプリング(Charlotte Rampling)とベッドに横たわるセルフ ポートレートを撮影した。ただし、テラーはMarc Jacobsのシルバーのショーツを身につけていたが。ヴィクトリア・ベッカム(Victoria Beckham)も広告に登場し、ブランドの巨大な紙袋から日焼けした両脚だけを突きだしてみせた。「みんな、僕もほかの連中みたいに人を小馬鹿にしてると思ったんじゃないかな。でも、僕はそうは見なかった」ポップ スター兼ファッション デザイナーのベッカムをキャスティングしたことについて、ジェイコブスは説明する。「彼女は僕の仕事を見に来てたし、ファッションに関心があったし、僕は彼女が好きだった。パリでヴィクトリアに会ったとき、こう話したんだ。『これにはたしかにふざけてる部分もあるけど、ぜひあなたの写真がほしいんだ。ユルゲンもあなたを撮りたいと言ってる。でも承知してもらわないといけないけど、ユルゲンは華やかな写真は撮らない。ライトもないし、メイクもしない。誰もあなたを笑い者にしたりしない代わりに、あなたには僕らと一緒に楽しんでもらう』って」
1998年から2014年のすべての広告写真でコラボしたテラーとジェイコブスは、その楽しさにファンも巻き込んだ。彼らの成功はいかにも彼ららしい、型破りで愛すべきミューズ兼顧客を創造したことにあった。2015年にサラ・ニコール・プリケット(Sarah Nicole Prickett)が『New York Times』紙のスタイル マガジン『T』誌でMarc Jacobsな女性についてこう書いている。「彼女はパーティーのゲストだ。全員がたしかに顔見知りだけど、どこで会ったか思い出せないという顔をして彼女を見る。一方、彼女のほうは知り合いなんかいないわというようにあたりを見回す。彼女は場違いというより、違う時代から来たように見える。ひざ下丈で地味なスカートに、色気のないヒール。だがTシャツはシースルーでスパンコールが輝いている」
当時のジェイコブスが手掛けたべつの仕事の話をしよう。1854年の創業以来、Louis Vuittonは旅行における幾多の革命を乗り越え、上流階級へ向けてバッグを販売してきた。ジェイコブスは1997年から2013年までVuittonのアーティスティック ディレクターを務め、その指揮のもと、自分の就任までは旅行鞄とその付属品が売りだったこのフランスの老舗メゾンに劇的なリバイバルをもたらした。彼は古色蒼然としたメゾンが初めて迎えたプレタポルテのデザイナーだった。「Vuittonに入ったときは葛藤があった。僕は望まれていなかったからね。いやアルノー氏は僕を望んでくれて、仕事をくれたんだけど」と、ジェイコブスはLVMH Moët Hennessy Louis Vuittonの会長兼CEO、ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)の名を出し、「それに最終的には、イヴ・カルセル(Yves Carcelle)も、僕の仕事に敬意を持ってくれたと思う」と、故人となった長年のLVMHの重役に触れた。
『アドバイス』という言葉を使わないんだ。アドバイスが好きじゃないんでね。アドバイスはしないし、耳を傾けることもあまりない
ジェイコブスによるVuitton初のショーで発表されたパリッとしたコートとスカートは今、メトロポリタン美術館のコスチューム インスティテュートに収蔵されている。コレクションがお披露目されたのは1998年春のパリ ファッション ウィーク。この年の少し後に『The New York Times』紙で次席ファッション評論家となったキャシー・ホリン(Cathy Horyn)は、私にこう話してくれた。「私も含めてほとんど誰も、自分はVuittonにひとつの美学が打ち立てられていくところを目撃しているとは思ってなかったんじゃないかしら。でも、まずマークがやろうとしたのはそれだった。スーツケースとロゴで有名なブランドに、ファッション ブランドの顔を与えようとしたの。一からね。それと同時に、彼はフランスのタフなビジネス界に無謀にも飛び込んだ。間違いなく圧倒的で、時には痛い目にもあう学びの体験だったはずよ」
アーティスティック ディレクターとして在任中、ジェイコブスは伝統を重んじ、ファッション界の反応を引き出し、さらにあそびの部分で程よく茶目っ気も忘れないという曲芸をやってのけた。彼がVuittonで開催したショーは堅苦しさとは無縁で、常にのびやかで壮大だった。あるときはルーブル美術館の中庭クール カレで、特注の蒸気機関車から制服姿のポーターを従えたモデルたちを登場させた。ポーターたちが運ぶのはStephen Jonesの婦人帽を入れるワニ革の帽子箱。またあるときは、同じ中庭に実際に動くエスカレーターをクレーン車で運び込み、チェッカー柄をまとったモデルたちがチェス盤のマス目を描いたステージに降りてきた。フェティッシュな作品を極めたあとのシーズンでは物静かなデザインが恋しくなり、レーザーカットのレースを重ねた透き通ったオーガンザをまとったモデルたちに、チュイルリー庭園のそれに発想を得た回転木馬の周りを闊歩させた。
「パリは僕にとって、映画から抜け出てきた世界だった」とジェイコブスは言う。「すべてに脚本があるみたいな感じで。だけどその映画が最高だった。パリというその映画のセットを愛してた。その映画の光と影をね」。彼はその映画に流れる時間も気に入った。パリの暮らしはずっとゆっくりしていた。彼が腰を据えたのは、シャン ド マルス公園近くの、美しく整えられた3階建ての庭付きアパルトマン。壁にはルシェ(Ruschas)の絵を飾った。だが、たいてい彼は仕事で留守だった。毎週月曜は、LVMHの重役たちとの会議だった。「アルノー氏との関係はじつに風変わりで素敵なものだった。僕はいつも彼の承認を求めていた。ほかの誰が認めてくれても、どんどんどうでもよくなってきてね。父親に『よくやった』と言われたい息子みたいに。僕が求めてたのは彼のその一言だった。よくある、競争を生み出して、デザイナーを互いに競わせるようなやり方とは逆だった。それは僕にもわかってた」
ホリンは、Vuittonの2003年春のコレクションから始まったジェイコブスとアーティストの村上隆のコラボレーションはひとつの転機だったと言う。「あれでラグジュアリー ブランドに新しくてユニークな枠組みが与えられたの。タイミングも―これがマークの強みなんだけど―ぴったりだった。アート界からファッションへ、その逆にファッション界からアートへ強い関心が向く先ぶれだった。Louis Vuittonでそうしたヴィジュアルの基盤を築いたのは彼の功績。ニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquière)も言ってるように」さらに言葉を続けた。「そのうえ彼はMarc Jacobsの素晴らしいショーをいくつも手掛けた。考えてみると、そろそろマークはあの時代と、それから去年2月にアーミタージュでやったコラボまでのMarc Jacobsの集大成をテーマに展覧会をやるべきじゃないかしら。マークが後世に残すものという意味でも重要だし、すごく刺激的なショーになると思う」

昨年、ジェイコブスはオーストラリア生まれでブルックリン在住、以前Helmut Langでデジタル エディターを務め、ブートレグ品のデザインで知られるアヴァ・ニルイ(Ava Nirui)を特別プロジェクト ディレクターとして採用した。「最高のアイデアはコラボから生まれると確信してる。僕はアイデアを独り占めする必要はないんだよ」。彼女との最初の特別プロジェクトはHeaven。このMarc Jacobsのディフュージョン ラインが向かう先にいるのは『ロリータ』を読み、グレッグ・アラキ(Gregg Araki)監督の「終末モノ青春映画三部作」に主演するジェイムズ・デュヴァル(James Duval)に夢中なティーンエージャーだ。閉ざされたドアに鏡が架けられ、トランポリンに雑誌が積まれ、床には固定電話機がある。このラインの服を見せる舞台は、空想上のティーンの部屋だ。シンプルで小洒落た服はユルい毎日にもぴったりで、かつてのような新学期を迎えることはもはやないかもしれない世代の新学期のワードローブにふさわしい。コレクションのルックブックは、日本のストリート ファッション雑誌『FRUiTS』を創刊した写真家の青木正一が東京で撮影した。ジェイコブスは言う。「僕の歴史が、たとえばアヴァみたいに次の世代としっかりつながってる人たちにインスピレーションを与えていると感じる。僕ができること、そしてすべきだと思うことは、生まれてくるものを見守り、手出ししようとしないことだ」。新ラインのデビュー パーティーには、ブルックリンのドライブ インで、アラキ監督の『ノーウェア』が上映された。テールゲート パーティーの参加者のなかには、ミュージシャンのデヴ・ハインズ(Dev Hynes)やポーチズ(Porches)のアーロン・メイン(Aaron Maine)の姿もあった。
ジェイコブスは旅ができなくても気にしていない。フランク・ロイド・ライト設計の家のために計画を練るので頭のなかはいっぱいなのだ。「わが家―、僕にとって一番大切なのはそれだ。ファッションよりも、ほかの何よりもね。今、僕がほんとに夢中になってるのは次のこの家、僕らのホーム、僕らの永遠の居場所を作ることなんだ。ずっとそういう気持ちで生きてきたけど、これが総仕上げ。これが最終章になる。でも、悪い意味でじゃないよ。安楽椅子に座り込む計画はない」。何もかも売り払った先日のSotherby’sでのオークション以降、アートの蒐集は控えめにしているが、サム・マッキニス(Sam McKinniss)が描いた、映画『ビートルジュース』のリディア・ディーツに扮したウィノナ・ライダー(Winona Ryder)の絵を勧められて飛びついたりもしている。その絵は彼の長年の憧れだった。「ウィノナは僕にとって本当に特別な存在だし、インスピレーションを求めて観る映画には『ビートルジュース』も入ってるけど、それだけじゃなくて僕がサム・マッキニスというアーティストを追っかけるきっかけになったのはあの絵なんだ。僕がサムをみんなに宣伝したんだよ」
2016年に個展でジェイコブスに出会ったマッキニスは、私にこう語る。「マーク・ジェイコブスは僕が美大生だった頃、世界で一番興味深い人間だった。ほかにも大勢がそう思ってたと思うけど、とにかく僕にとってね。彼がLouis Vuittonで活動していた頃のドキュメンタリーを観たり、Marc by Marc Jacobsで買い物したり、そこの店員の男の子たちに一目ぼれしたりしたのを思い出すよ。彼の倫理観、ファンタジー、作品、ユーモアに絶対の信頼を置いていた。マークが自分を使ってアートを生み出すやり方はすごく愉快だ。だが同時に知的で、セクシーで、的を射ている」
大統領選挙の3日後、ライの仮住まいで、ジェイコブスは仕事仲間の何人かと一緒にダイニング ルームのテーブルを囲んでいた。
「未来の副大統領の衣装を担当するつもりある?」。メイクアップ アーティストのアンドリュー・コルヴィン(Andrew Colvin)が彼に訊ねる。
「もう連絡とったよ」。広報のマイケル・アリアーノ(Michael Ariano)が答える。
「もう? すごいな、マイケル。やる気満々だね」。ジェイコブスが言い、付け加える。「オバマ夫人は何着か着てくれたっけ」

会話する彼はいつもあけっぴろげで、くるくると話題が変わる。「たぶん、言っちゃうことで、ある種、自分から強気に出るのが快感なんだと思う。ああ、髪の移植は3回やったよ、美容皮膚科でフィラーも注入するし、更生施設にも入ったし、ヘロイン中毒だったし、乱交パーティーもやったし、母親はベルビュー精神病院に入ってた。何でもござれだよって」。2015年、まだインスタグラムを使いはじめたばかりの頃、彼は「ホットなブラジル人」に送るつもりだったヌードのセルフィーを、うっかり自分のアカウントに投稿してしまった。キャプションは「It’s yours to try ! (お好きにどうぞ!)」。スクリーンショットは永遠だが、ジェイコブスの物事をさらりと受け流す才能も負けていない。その後すぐ、彼はその言葉をプリントしたTシャツをショップで売り出した。ジェイコブスはこう続ける。「ゲイのデザイナーの半分はGrindrを使って相手を探してる。みんな認めないだけでね。僕は自分の名前と写真を使ってたよ。知ってる? お前は本物のマーク・ジェイコブスなのか証明してみろって、何人も言ってくるんだ。で、このとおり僕は僕なんだって証明するために、こっちは4本指を上げたりして、写真を送る羽目になる。笑えるよ。え、何? 有名になったらもうセックスしないの? 欲望が消えちゃう? 僕より前の時代に、コカインを使ってることを隠したり、若い男を部屋に呼んでることを隠したり、女装してることを隠したりしてた人たちを山ほど思い出せる。僕はありのままを言っちゃうだけさ」
ジェイコブスはデフランチェスコとは友人を介して出会ったと語る。「何人かで集まってたとき、彼だけが僕の言わんとしてたことをわかってくれた」。それはあの同じ脚本―現代のロマンチック コメディのセリフだ。ふたりは2018年、デフランチェスコの誕生日に、西13丁目と6番街の交差点にあるメキシカン レストラン、Chipotleで婚約し、自宅で静かに結婚したあと、ミッドタウンのシーグラム ビルディングで700名のゲストを招いて華やかなパーティーを開いた。ゲストへの引き出物は、ラッコのペアが刺繍され、「Don’t Float Away(流されないでね)」というメッセージが入ったMarc Jacobsのフーディー。この言葉は、ジェイコブスの金の結婚指輪の内側にも彫り込まれている。「付き合い初めの頃、かわいこぶった声で、『流されないでね』とお互いにささやき合うようになってね。すごく月並みでくだらないけど、ふたりとも、ラッコが手を取り合ってるYouTubeの動画が大好きなんだ」
ジェイコブスは若者が「どこからともなく涼しい顔で流れ着き、ロングアイランドサウンドの豪邸を買う」ことはないと、その愛読書で学んでいる。今世紀の20年代に入っても新鮮な魅力を保つデザイナーは、ずっと昔、作家フィッツジェラルド(Fitzgerald)の作り出したデイジー・ブキャナンに美の理想を見出した。マナーシング島に建つ夫夫の新居からは、入江とコネチカットの海岸線が見渡せる。今、ジェイコブスのみずからへ向ける視線に曇りはない。「じつはシャワーを浴びながらこのことを考えてたんだ。今の僕はなにが違うのか。なぜ自分をもっと表現したい欲望を感じるのか。自己表現がここにたどり着いたのはなぜか。クスリをやめたとき、僕は辱めを金輪際拒否すると決めた。長年いろんな場面で、何かしら貶められるのを感じてきたけど、もう甘んじてそれを受けるのはやめたんだ。餌食になってたまるか。恥ずかしいと感じたとしても、それは僕の恥じゃない。相手が僕にそう感じるように仕向けたものだから。そんなのそもそも不可能なんだから。僕の感情の主人は僕だ。何がノーマルか、他人に押し付けられるつもりはない」。いいアドバイスだ。たとえ彼にそのつもりがなかったとしても。
Thora Siemsenはニューヨーク在住のライターである
- 文: Thora Siemsen
- 写真: Tina Tyrell / SN37
- 制作: Marie Robinson / Rosco Production
- メイクアップ: Andrew Colvin
- 衣装: Marc Jacobs 私物
- 翻訳: Atsuko Saisho
- Date: March 25, 2021

