美しく血だらけの惨状

パンクな詩人のブロンテズ・パーネルが「クィア」のパラダイムに挑む

  • インタビュー: Daniel Spielberger
  • 画像/写真提供: Brontez Purnell

「何のために引っ越してきたんだか!」と、ブロンテズ・パーネル(Brontez Purnell)はカリフォルニアを襲った寒気を嘆いた。Zoomの長方形の画面で、自然に打ち負かされた諦めの笑いが僕たちの口から漏れる。インタビューを行なった月曜日の午前中、パーネルはオークランド、僕はロサンゼルスにいたが、どちらの場所でも暖かな日差しは微塵もなかった。パーネルの新作にも、カリフォルニアに失望した奇妙な痛みが綴られている。『100 Boyfriends(100人の男友達)』というタイトルは、サンフランシスコのベイ エリア、ヨーロッパ、生まれ故郷のアラバマを舞台に、昔の恋人たちがいつまでも幽霊のように存在し続ける感覚から生まれた。短編とさらに短い寸描は、セックスに冒険と自分の存在の確認を求めたゲイの男たちの姿を立ち上がらせ、そんな男たちとの性行為に表れる階級、人種、年齢の力学を曝け出す。内臓が発したような言葉が動きまわり、読者を招き寄せる温かな混沌に、溢れんばかりの胸の痛みと情欲が浮かび上がる。

パーネルは、長年にわたってパンクの精神を書き続け、コンテンポラリーダンスのカンパニーを率い、多数の映画を監督してきた。テルファー(Telfar)とTシャツやフーディをコラボするときも、ザ ブロード現代美術館でパフォーマンス アートを公演するときも、ジャンルの枠組みには決して納まらない。2018年には処女小説『Since I Laid My Burden Down(重荷を下ろしたから)』でホワイティング賞を受賞し、現在映画化に向けて脚色中だ。パーネルのロックバンド「The Younger Lovers」は、昨年の11月、Green Dayのビリー・ジョー・アームストロング(Billie Joe Armstrong)によるプロデュースで、EPをリリースした。

パンデミックが数々の制約を課すなかで、パーネルはDIYの実践を続けている。タイプライターを使って『Fag School』第5号を編纂し、個人的に申し込んだ熱狂的ファンにだけ郵送する。「移動が制限されたせいで、コミュニケーションはずいぶん力を失った。この状況で、ジンはかつてなく歴史的な意味を持つ。革命はデジタル化されないってことさ」

陽気で遠慮を知らないパーネルは、フォロワーたちを「the boyfriends — 男友達」と呼び、『100 Boyfriends』はムーブメントだと思っている。「オレたち全員がデートしてるほうが、生き延びる可能性は高い」。どういう意味かと尋ねると「好きなように解釈すればいい」。ムーブメントにはマニフェストが必要だ。革命的なイデオロギーの実践を呼びかけ、やり方を教えなくてはならない。エネルギーに満ち溢れた散文で誘惑し、むき出しの生身と自然な流れの悦びを謳歌する『100 Boyfriends』は、僕たちが内面の声を堂々と宣言するための手引きだ。

ダニエル・スピールバーガー(Daniel Spielberger)

ブロンテズ・パーネル(Brontez Purnell)

ダニエル・スピールバーガー:『100 Boyfriends』はどういう経緯で出版されることになったの? どんな内容?

ブロンテズ・パーネル:オレはダンス カンパニーを運営してるし、パフォーマンス アーティストでもある。「Bombs Uber California」というソロで、カリフォルニアへ来て体験した内面世界を表現したことがあって、それを初めてサンフランシスコで公演したとき、会場の壁に大量に貼り付けた文章が、最終的に『100 Boyfriends』になった。最初は散文詩だけの本にするつもりだったし、オレの中のビートニク詩人を出してやりたかったから、そのつもりで口コミで宣伝してたんだ。ところが風向きが変わって、ホワイティング賞なんか貰って新進作家の肩書が付いたら、出版社が電話してきて「原稿はありますか?」。 だから『100 Boyfriends』の書き出しの部分を見せたら、話が進んで今の形になった。

つまり、『100 Boyfriends』はもともとはダンスと連動してたんだ。そういう複数の媒体での対話は、予め計画を練るの? それとも、あるひとつの媒体を選んでストーリーを語ろうとしたとき、自然に派生してくる?

両方だな。先ず何を生み出す必要があるかを考えて、計画を立てて、余分なものを濾過する。どういうふうに生まれるにせよ、オレのアートは大抵、オレが毎日毎日アートと交わしてる対話だ。オレは常にアートに話しかけてんだよ。植木に話しかけて、水をやるのと同じ。「ヘイ、ベイビー、今日は何が欲しい? 太陽を浴びたいか? 水が飲みたいか? 愛してほしいか?」って話しかけて、耳を澄ませて、ベイビーの答え次第でやり方を調節していく。

『100 Boyfriends』はこれまでに書いたものと、どこが違うと思う?

以前みたいに、首の骨でもへし折りそうな気狂いじみたスピードがないね。20代にはまったくお構いなしだった類の表現が進化して先へ進んだから、『100 Boyfriends』は多分、オレが今まで書いたものの中でいちばん深い内省じゃないかな。

僕は、「Mr. Raleigh vs. The Gym(ミスター・ラリーとジム)」の話が好きなんだ。年上のゲイとつきあってる若いボーイフレンドが、浮気してるくせにのらりくらりと誤魔化す。そのやり方と、白人が社交辞令や礼儀を使って帝国主義を画策するやり方が比べてあるじゃない。「男は礼儀正しい嘘で征服する。空疎な言葉を並べたてながら、見えない行為で相手の喉を切り裂く」の箇所が印象に残ってるな。セックスともっと大きな歴史との類似について、もっと話してくれる?

あの話は、そこに光りを当ててるはずなんだ。男が軽い気持ちでセックスして、そのまま遊びにしておきたい相手に、「おい、お前とはセックスしてるけどな、何も期待するなよ。人前で話しかけたりするなよ」なんて言うことは滅多にない。最初から遊ばれてるのはわかるはずだったのに、後になってようやくわかったことが、オレにもある。そういうときの男は、オレの耳にありとあらゆる甘い恋物語を吹き込んで、すごく特別になった気分にさせたが、実際のところ、やつらにとってオレは何の意味もなかった。セックスのいちばん美味しいところを味わうために、どうにかして、オレが中心みたいに信じさせる必要があっただけ。少しでも何かを欲しがった途端、頭がおかしいだの、欲張りだの、境界の侵害だのと言われる羽目になる。本当は、誰かと肉体関係を持ったら、公然と相手に認められたいと思うもんだ。そういう権利と自意識を求めるのは、人間なら当然の良識だ。オレは散々そういう立場を体験したから、中年にもなったことだし、最近じゃHickeyのマティ・ラブ(Matty Luv)が歌ってるとおり、「オレに必要なものをくれよ。じゃなかったら、サッサと消えな」って気分だ。

書くことやそういう関係を振り返ることで、一歩下がって、生活や歴史の他の部分にもそういう力関係が作用しているのが見える?

ったくあらゆることの、そもそもの初めから作用してる。水晶の球をのぞいたり一生懸命頭をひねったりしなくたって、オレらの生活のありとあらゆる関係に、ろくでもない白人至上主義や男支配主義がのさばってるのは一目瞭然だろ。オレはそういう体制の勝ち組だったことがただの一度もないから、その分余計にはっきり見えるんだろうな。実際、「ブロンテズ、今までお前みたいに考えたことはなかった」って言うやつが多くて、驚くね。オレに言わせるなら、色んな問題があっても、ほとんどの人間は考えもしない。近頃のクィアの本がどうしようもないのも、そのせいさ。だから、そこんとこをきっちり理解するためにも、もっとオレに金を払って、オレの言葉を聞く必要がある。

「This Day and Many More(この日ともっと多くの日)」の語り手は、フランスのクィア映画を観て、初体験が美しくロマンティックに描かれてるのにイラつくんだよね。そして自分の初体験と比較する。自分のときは、白いシーツが「殺人現場か、牛でも屠殺したみたいな」有り様だったのにって。こういうクィア文化の断裂、理想と現実の乖離についてどう思う?

表現されてることの大部分は、グチャグチャの惨状だ。オレが気に食わないのは、それがとことんグチャグチャじゃないこと。そもそも本物のグチャグチャってのは血まみれなもんだ。ところが、最近書かれるのは、すっきりさっぱりのグチャグチャだ。本物のグチャグチャが血まみれであることは、この世でいちばん純粋、かつ明瞭、かつ認めうる真実であるにもかかわらず、相も変わらず、ストレートの異人種にもわかってもらえると期待しながらアートを作ってるようなもんだ。そりゃ、わからないでもない。クィアということで、決めつけられたくはないもんな。LGBTQの権利のために闘う急進派とか、男勝りのレズビアンとか、種馬みたいなホモとか、意味不明のノンバイナリーとかさ。みんな、そういうレッテルを貼られるのが恐いんだ。オレは恐くない。オレはゲイの居場所から書く。オレ自身がゲイのゲットーだ。オレの世界はとことんゲイで、ストレートなやつらの世界と関わり合う気はないし、そんなものはどうだっていい。人当たりのいいゲイの世界には、ストレートの世界へ擦り寄るものが多すぎる。オレは、オレとオレのゲイ友の世界で大いに満足。ヤク中でセックス中のゲイ友とオレだけの世界で結構。昔みたいに「ゲイ」が軽蔑した呼び名に戻ったって平気さ。それが嫌なら、放っといてくれ。実際、何を使ったって自分を認めさせることはできるんだから。ただ、これだけは渡さない、オレたちのものだ。

「血まみれのグチャグチャ」って言葉、好きだな。初期の頃に影響を受けた人物とか、関心のあるアーティストはいる?

そうだな、サグポップ(ThugPop)、ジェレミー・O・ハリス(Jeremy O. Harris)、シェーン・オリバー(Shayne Oliver)、テルファー(Telfar)あたりかな。テルファーとは、2005年か2006年にサンフランシスコで会った。オレが以前やってた『Fag School』っていうジンで何回もインタビューしたし、古い知り合いさ。テルファーやジェレミーやサグポップがやりたいことをやってんのを見ると、黒人クィアであることの強烈な喜びを目の当たりにしてる気がする。何ものにも損なわれてない、ブラックな歓喜だ。パンクの世界にいると、オレがやることを指図できると思い込んでる白いやつらがそこら中にいる。テルファーたちを見ると感激だ。もう一度オレ自身に立ち返って、物の見方を修正できる。オレは今、最高に幸せだ。

Daniel Spielbergerは『Los Angeles Review of Books』、『Interview Magazine』、『Playboy』、『Vice』、『Business Insider』、その他に記事を執筆している。現在、カリフォルニア芸術大学クリエイティブ ライティング プログラム修士号を目指している

  • インタビュー: Daniel Spielberger
  • 画像/写真提供: Brontez Purnell
  • アートワーク: Sierra Datri
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: April 5, 2021