ジャン=ポール・ゴルチエを解剖するA~Zガイド

因習の打破を恐れないデザイナーは、もっとも多く語られ、もっとも愛されるブランドを誕生させた

  • 文: Liana Satenstein
  • 写真: Nick Barr
  • アーキビスト&クリエイティブ コンサルタント: Steve Karas from House W NYC

ジャン=ポール・ゴルチエ(Jean Paul Gaultier)はスペイン語の教師になるはずだった。それが両親の望みだった。だが息子は、スペイン語教師になる代わりに、ファッション界の「アンファン テリブル」になった。ゴルチエの永遠の規則破りとトレードマークの短く刈り上げたブリーチブロンドは、ファッションの世界に奇矯とユーモアを注入した。ゴルチエはストリートを鋭く観察し、歩道で目にするファッションをダイレクトに作り変え、気取りとは無縁のレンズで服を見つめることに徹した。同時に、インドや日本、タトゥーやピアス、古いもの、新しいもの、と多様なカルチャーの工芸品と広範なインスピレーションで、デザインを豊かに膨らませた。彼は、多文化を理解した最初のデザイナーだった。

ゴルチエは1952年、秘書と簿記係を両親とする中産家庭に生まれ、退屈なパリ郊外で成長したが、子供時代には信仰治療師だった祖母が、訪れた人の運勢をタロットカードで占い、衣服を作り変える方法で病を癒すというのをじっと見ていた。幼いゴルチエは「おばあちゃん」のそばで服を愛する気持ちが芽生えた。
やがて17歳になったゴルチエは尊敬するデザイナーたちにレジュメを送り、弱冠18歳でクチュリエの王、ピエール・カルダン(Pierre Cardin)に雇われた。その後Jacques EsterelとJean Patouに短期間在籍し、1976年に1万2,000ドルを借金して自分のブランドを立ち上げた。それからキャットフードの缶でブレスレットを作ったり、男性にシフォンを着せたりしたものの、ファッション エディターたちの理解は得られなかった。だが1978年、日本のアパレル大手として有名なオンワード樫山からバックアップを受けられるようになり、ようやくJPGブランドを育てることが可能になった。その後の歴史は説明するまでもない。当時は物議を醸す決断だったにもかかわらず、スカートを穿いた男性モデルをランウェイへ送り出し、数々のディフュージョン ラインを誕生させ、自費でオートクチュールを創作し、劇場で回顧ショーを開催した。ヒット作をパンだけで再現した展示も行なった。ゴルチエの眼鏡を通して見る世界は、最高にすばらしく、どこまでも広がる。

マリニエール、1990年代初頭。

ACTIVISM
行動

ゴルチエは常に、信念を自然なデザインで表現し、人々の現実の装いをデザインしようとした。だから当然、ショーにはさまざまな市井の人々をキャスティングした。タトゥーのある人、中性的な人、老人、若者…挙げればきりがない。現在のアクティビズムとは違うだろうが、誠実な型破りだった。

もっと直接的なかたちで行動を起こしたこともある。例えば1995年のショーでは、観客席に反原発パンフレットが置かれていた。1997年秋シーズンには、「Fight Racism(人種差別と闘え)」のスローガンをグラフィックにして、パンツとジャケットをデザインしたこともあった。

ゴルチエは、創作の面でも、クィアであることを一度も隠したことがない。ゲイであることを公言した最初のデザイナーのひとりとして、1984年から男性モデルにスカートを穿かせるなど、独創的な決断によってランウェイのバイナリーを粉砕した。HIV/エイズに関する啓蒙を支援するようになったのは、1990年に15年来のパートナーであったフランシス・メヌージュ(Francis Menuge)をエイズ関連の病で失ってからだ。メヌージュの死後間もなく、ゴルチエは作品にもファッション界での活動にも、HIV/エイズの認識を浸透させ、慈善イベントにも参加した。当時頭角を現しつつあったナイトライフのプロデューサー、スザンヌ・バーチ(Susanne Bartsch)が1992年にパリで企画した「Balade de l’Amour」には、ティエリー・ミュグレー(Thierry Mugler)と互いのデザインを着て参加した。その1か月前には、米国エイズ研究財団「amFAR」のファッションショーで、バストを露わにしたマドンナ(Madonna)がモデルになって、ゴルチエを応援した。HIV/エイズに関する活動はデザインにも編み込まれ、1996年春の「Cyberbaba」コレクションには、「Safe Sex Forever(安全なセックスよ、永遠に)」のタトゥー風プリントをデザインしたメッシュ シャツが登場した。この「Safe Sex Forever」シャツのオリジナルを見つけられた人は、ラッキーだ。HIV/AIDSに関するゴルチエの啓蒙活動は、ランウェイ以外でも継続している。2010年にPiagetがスポンサーとなってニューヨーク公立図書館で開催したAmfarイベントでゴルチエはステージに立ち、「私の唯一の後悔は、コンドームを作らなかったことです。コンドームは、身に着けるもののなかでもっとも美しい」と述べた。2020年には、HIV/エイズと共に生きる人々への支援と研究を促進するフランスの組織「Sidaction」のアンバサダーになった。

BIRKIN
バーキン

モデルたちにピアスやフェイクのタトゥーをほどこすことで知られるファッション界の「アンファン テリブル」が、現在のバーキン誕生に貢献するなど、一体誰が予想しただろうか? JPGブランドでデニムのトート、ナイロンのバックパック、グラマラスなコルセット バッグをデザインしたゴルチエは、1999年に自社株の35%をフランスの巨大ブランドHermèsに売却し、2004年に同ブランドのクリエイティブ ディレクターに就任すると、高級キャリーオールの分野に乗り出した。前任者のマルタン・マルジェラ(Martin Margiela)と異なり、ゴルチエはHermèsでのデザインを続々とランウェイへ送り出した。例えば、バーキンとしては唯一長い持ち手で肩にかけられるショルダー バーキンや、漆黒の艶消しクロコダイル バーキン。なかでも垂涎の的は、2010年春シーズンのランウェイで初登場したニロティカス クロコダイル ヒマラヤ バーキンだ。

冒頭の画像左から右へ:1990年代前半のマリニエール、1997年秋のレッド ブリック コート、1994年秋のファーのパッチベスト、1992年春のグレーのフェイススーツ、1996年春のレッドのボディスーツ、1997年秋のレッドのモヘア キルト。1996年春夏コレクション、「Pin Up Boys 」のシャツを着るRobin Williams。(画像提供:Fotos International/Getty Images)

COUTURE
クチュール

常にマイペースのゴルチエは、費用を自分で工面して、1997年に最初のクチュール ショー「Atmosphere of a Couture Salon」を開催した。社会の本流を外れた場所で仕事をするときの、嬉しくない現実だ。『New York Times』によると、当時のフランス大統領ジャック・シラク(Jacques Chirac)と首相アラン・ジュペ(Alain Juppé)の夫人たちは政府の応援を示す目的でフランスのファッションショーに出席していたが、このときのゴルチエのショーには姿を見せなかった。それにもかかわらず、「Atmosphere of a Couture Salon」は大きな反響を呼んだ。ファーストレディーたちはいなかったが、会場には山本耀司の姿があった。『Vogue』はゴルチエのデザインを高く評価して、1998年10月号の見開き特集「Absolute Couture」にバーガンディのベルベットが大きく膨らんだマトンスリーブのドレスを掲載し、「アンファン テリブルの成長」の見出しをつけた。ファッション界に大きなエネルギーを吹き込む有望デザイナーとして、ゴルチエが急成長を遂げつつあった証だ。

そのゴルチエは200以上のルックを披露した2020年春のショーを最後に、クチュールのデザインに別れを告げたが、復活までに時間はかからなかった。2021年のカムバック後は、シーズンごとにゲスト デザイナーとコラボするスタイルに移行し、Sacaiの阿部千登勢、シモーヌ・ロシャ(Simone Rocha)、ハイダ―・アッカーマン(Haider Ackermann)、Y/Projectのグレン・マーティンス(Glenn Martens)、直近ではHood by Airのシェーン・オリバー(Shayne Oliver)によるオートクチュール コレクションを発表している。

DAMES
女性ファン

ゴルチエは女性たちに愛される。そのなかには、ゴルチエのショーで必ずフロントロウに座るふたりのフランス女性が含まれる。ひとりは女優のカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)、もうひとりは映像作家のファリダ・ケルファ(Farida Khelfa)だ。ドヌーヴはかねてからゴルチエの支援者であり、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)の次に愛用するデザイナーだと公言している。写真で大抵ドヌーヴの隣に写っているケルファは、ゴルチエ初期の1970年代後半にモデルとしてランウェイを歩いていた。

EUROTRASH
『ユーロトラッシュ』

ゴルチエが「小便」の話をし、クラウディア・シファー(Claudia Schiffer)がダイヤモンドさえカットできるほどに尖った乳首を自慢し、ヌードの男性が掃除する? いずれも、1993年から1997年にかけてゴルチエがアントワーヌ・ドゥ・コーヌ(Antoine de Caunes)と共同ホストを務めた英国の30分深夜番組『ユーロトラッシュ』の一コマだ。遠慮のないおふざけだが、シックなカオスも感じさせたこの番組には、粋なファッション レポートと奇妙なヌードの場面が混在していた。紙から切り抜いたように見える家具など、奇抜な騙し絵風のセットで繰り広げられる構成には、間違いなくゴルチエのユーモアが反映されていた。低予算番組の印象だが、実際はカネも掛かっていた。ゲストは錚々たる顔ぶれで、ビョーク(Björk)と彼女のビデオのコラボ パートナーであるミシェル・ゴンドリー(Michel Gondry)、カイリー・ミノーグ(Kylie Minogue)のほか、カレン・マルダー(Karen Mulder)やカーラ・ブルーニ(Carla Bruni)、前述のシファーなど、スーパーモデルたちが出演した。モデルのナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)がエージェントから離れた理由を洗いざらいぶちまけたインタビュー、悩殺美女のシファーの刑務所?訪問など、とっておきのエピソードもあった。

特ダネはさておき、『ユーロトラッシュ』にはあけすけにセクシュアルな雰囲気があった。巨乳女優のロレーナ・エレーラ(Lorena Herrera)はバストのマッサージ方法を教え、ポルノ女優の故ロロ・フェラーリ(Lolo Ferrari)は世界一と言われた爆乳を披露した。ペニス ポンプの使い方が実演されたこともある。男性ファッション モデルのマーカス・シェンケンバーグ(Marcus Schenkenberg)がインタビューに持参したヘッドコンドームも忘れられない。ゴルチエはオンエアでラテックス製の被り物を試着し、「フランスのベレー帽」と呼んだものだ。ひねりのある『ユーロトラッシュ』の洒落た倒錯は、現在もYouTubeで視聴できる。

THE FIFTH ELEMENT (1997)
『フィフス エレメント』

ゴルチエは、『コックと泥棒、その妻と愛人』(1989年)、『キカ』(1993年)、『バッド エディケーション』(2004年)など、映画の衣裳デザインでも素晴らしい経歴がある。なかでも広く知られているのはリュック・ベッソン(Luc Besson)監督の大ヒット作『フィフス エレメント』(1997年)だ。2263年が舞台のSF世界で、当時19歳のミラ・ジョヴォヴィッチ(Milla Jovovich)演じるリールーと逞しくてセクシーなブルース・ウィリス( Bruce Willis)演じるタクシー運転手コーベン・ダラス(Korben Dallas)が、銀河系の大惨事から人類を救うべく奮闘するストーリーだ。登場人物たちの衣裳に、ゴルチエは持ち前の遊び心を発揮した。大胆不敵なフライト アテンダントのセクシーなドレスは「エアフランスの制服とはちょっと違う」と、ゴルチエは『Entertainment Weekly』にコメントしている。ゲイリー・オールドマン(Gary Oldman)が演じた悪者ゾーグにはブラウンのピンストライプのラバー加工ベスト、クリス・タッカー(Chris Tucker)が演じたDJディーバのルビー・ロッドにはヒョウ柄プリントのキャットスーツ。プレキシガラス製の夜会服を着たエキストラもいた。映画評論家のジャネット・マスリン(Janet Maslin)は1997年の『New York Times』に「戦いに備えるリールーの衣裳をデザインしたジャン=ポール ゴルチエは、さらに意欲的に主役以外の登場人物にもストラップ使いのSM風衣裳を考案した」と書いている。「誰よりも信頼に値するゴルチエ氏を信じるなら、ボンデージ ファッションでは白が人気の新色になり、将来は航空会社のスタッフが制服で街を闊歩できる」。言い換えるなら、『フィフス エレメント』はゴルチエの世界であり、観客はゴルチエが思い描く未来を目にしていたのだ。ちなみにリールーのホワイト ボンデージ ボディスーツは、急ごしらえだったらしいが、だからといって安あがりなわけではない。仕立て屋からベッソンに伝えられた費用は、1着5万ドルだった。

“GLOBAL VILLAGE CHIC”
「グローバル ビレッジ シック」

1994年の『Vogue』8月号で初めて使われたこの言葉は、ゴルチエが多種多様なカルチャーを積み重ねた1994年春シーズンのショーを表現したものだ。しかし、大きな意味で、ゴルチエのビジョンをとらえた言葉でもある。事実、ゴルチエはあらゆるものとあらゆる場所からインスピレーションを汲み上げた。イヌイット、ハシド派ユダヤ人、マサイ族、日本の芸者にインスピレーションを求めた。モンゴルや東南アジアへ目を向けた。宗教も例外ではなく、モデルたちがセクシーな尼僧だったり、ランウェイにイスラム教の詠唱が流れたりした。現代社会の風潮では、ゴルチエのデザインの多くに生き延びるチャンスは期待できないが、ゴルチエは常に創作を刺激するカルチャ―を称賛した。同じく多文化を表現した1995年秋シーズンのショーの舞台裏では、「すべてのカルチャーは地球への愛と好奇心を尊重している」と語っていた。

1995年秋/1996年春、スイムウェアVasarely。Y/プロジェクトとの2022年秋のコラボレーション、ボディタンク。

HASIDIM
ハシディズム

ブルックリンを訪れ、ハシド派コミュニティの敬虔な服装に強い印象を受けたゴルチエは、1993年秋に「Chic Rabbis」コレクションを誕生させた。東欧系ユダヤ人の伝統音楽クレズメルの心震わせる旋律をバックに歩くモデルたちは、 誇張したキッパ(男性が頭頂に被る帽子)、肩まで届く美しいペヨス(耳の前に垂らした髪)、シュトレイメル(毛皮の円形帽子)、テフィリン(頭に紐で括りつける黒い毛皮の聖句箱)を身に着けていた。おまけにショーのリフレッシュメントには、贅沢な聖日にふさわしいマニシェヴィッツ ワインが供された。

1993年の『New York Times』にエイミー・スピンドラ―(Amy Spindler)が執筆した記事によると、ゴルチエのショーを観たユダヤ系ファッション業界人の大多数は、気分を害していなかったと言う。ファッション ディレクターのカル・ラッテンスタイン(Kal Ruttenstein)は、「趣味の良さと魅力と威厳があった。敬意は少しも損なわれていなかったし、それどころか、大いに敬意が払われていた」と感想を述べた。Bergdorf Goodmanのファッション ディレクターで、ユダヤ系アメリカ人のプリンセスを自称するエリン・サルツマン(Ellin Saltzman)は、「私はユダヤ関連の物は全部無視して服のデザインを見るから、全然気にならなかった。表面はユダヤ教だけど、表面下ではすごく商業的なコレクションだったわね」と答えている。インタビューに応じたこれらの人々が、ブルックリンで戒律に従った帽子を被り、祈りに時間を割き、聖書に書かれた服装を規則通りに守るタイプではないことは認めよう。数か月後、1993年フランス版『Vogue』のために、エレン・フォン・アンワース(Ellen von Unwerth)がモデルのシャローム・ハーロウ(Shalom Harlow)、ブリジット・ホール(Bridget Hall)、メーガン・ダグラス(Meghan Douglas)を撮影したが、ゴルチエの控え目なデザインを着てボローパークのハシド派居住地区でポーズをとったり、葉巻を吸ったり、「清浄」なアイスクリーム ショップの周辺でウロウロしたことに、信仰の篤いユダヤ住民たちから否定的な反応があったのも事実だ。

IMELDA MARCOS
イメルダ・マルコス

Cardin時代にフィリピンのマニラにあるCardin ブティックに派遣されたゴルチエは、大統領夫人イメルダ・マルコス(Imelda Marcos)のスタイリングをしたことがある。ファースト レディは4,200足の靴を含む贅沢なファッションで知られ、最後は汚職の有罪判決を受けた。ゴルチエは後に、マルコスは「ホラー」だったと回想している。

JUNIOR GAULTIER
ジュニア ゴルチエ

ゴルチエは、SoleilやJeansを含め、ディフュージョン ラインを作り出す名手だった。なかでもいちばん手頃な価格帯のJuniorは、1988年、メイン ラインに手が出せない若年層のファンのために作られた普及ブランドだ。ゴルチエは、低価格にすることで金儲けを狙ったわけではなく、クラブ好きの若者たちが、お馴染みのメッシュ アイテムなど、ゴルチエらしいファッションを楽しめるようにという純粋な愛情からJunior Gaultierを作ったと説明している。いずれにせよ、これを契機に、ゴルチエは独創性と商業的成功の微妙な綱渡りをこなせるデザイナーとしてファッション業界に認められた。1991年には普及ブランドだったはずのJUNIOR GAULTIERが1億2,000万ドルを叩き出し、1994年4月号の『Vogue』は「SMプレーの女王様にふさわしいファッションということなら、Junior Gaultierは忘れたほうがいい」と評しつつも、「昔の医学の教科書をアイデアにした140ドルの半袖プリント レーヨン」は最高のお買得だと太鼓判を押している。

KILTS & SKIRTS
キルト&スカート

ゴルチエとキルトは切っても切り離せない。それほどまでにキルトを愛するようになった始まりは、おそらく1985年春の「A Wardrobe for Two」コレクションだろう。ゴルチエはこのショーで、男性モデルと女性モデルにスカートを穿かせた。危険な決断ではあった。『New York Times』には、デパート オーナーたちの否定的な反応が報告されている。Barneys VPのジーン・プレスマン(Gene Pressman)は「我々男性もすね毛を剃らなくてはいけなくなる」と言い、当時Charivariのオーナーだったセルマ・ワイザー(Selma Weiser)は「むかつく」と毛嫌いした。
そんな批判にもかかわらず、男性が脚を見せるファッションの素晴らしさをゴルチエは主張し続け、「男らしさは服から生まれるものじゃない。男性の内面から生まれるものだ」と『Times』に語っている。「男性も女性も同じ服を着て、なおかつ男性と女性でありえる。楽しいじゃないか」。ゴルチエはジェンダーと服装に関して屈託がなく、赤ん坊の頃に教会の洗礼で着せられた白い服が生涯初のドレスだったと笑い話にしている。ゴルチエ自身のキルト姿も珍しくない。2000年にスコットランドでマドンナとガイ・リッチー(Guy Ritchie)が結婚式を挙げたときもタータン チェックのキルトで参列したし、『ユーロトラッシュ』では相棒のアントワーヌ・ドゥ・コーヌが「毛むくじゃらの足でもセクシーなままとからかって、ゴルチエと息の合った掛け合いをしている。今では、キルトもスカートもJPGブランドのシグネチャのひとつだ。

LIVE TURKEY
生きた七面鳥

常にエキセントリックな表現をするゴルチエは、自分のデザインをけなしたパリのエディターに生きた七面鳥を送りつけたことがある。

「Blond Ambition」ツアーでパフォーマンスするMadonna。(画像提供:THIERRY ORBAN/Sygma via Getty Images) 1989年春、ピンクのコーンブラドレス。

MADONNA
マドンナ

ポップ ミュージックの女王はゴルチエ最強のメガ級チアリーダーで、目をえぐり出せるほど尖った円錐ブラのビスチェを愛用している。ゴルチエがマドンナのルックを手掛けた歴史は長く、なかでも傑作は、1990年の『Blonde Ambition』ツアーのためにデザインした、ピンクのダッチェス サテンのコルセット ボディスーツだ。突き出たブラはまるでミサイル。コピー バージョンなら、Christie’sで2万ドルで手に入る。もっともマドンナはそれ以前からゴルチエ礼賛者で、1980年代に手書きのファンレターを送っている。「マドンナが僕のデザインを好むのは、男性的な要素と女性的な要素を結びつけるからだ。彼女は自分の欲しいものをよくわかっていて、それはダメ、これはOK、ダメ、OK、ダメって具合だったよ」と、ゴルチエは2001年の『Times』のインタビューで語っている。マドンナはゴルチエのショーにも姿を見せる。花を着けていることが多いが、下着は着けないことが多いらしい。1991年3月号の『Vogue』に掲載されたジョージナ・ハウエル(Georgina Howell)の記事によると、同じくショーの観客席に座ったエディターたちは、フロントロウでこれ見よがしのマドンナに、目のやり場がないと苦情を言っているそうだ。

マドンナがゴルチエのショーでランウェイを歩いたことも何度かある。1992年のamFARイベントではゴルチエと手を繋ぎ、バストの部分がオープンなピンストライプのオーバーオールから誇らしく突き出た乳房を披露した。1995年春のショーは、白いプードル犬を連れ、乳母車を押すマドンナで幕を閉じた。最近では、『Celebration』ワールド ツアーのリスボン公演でゴルチエがステージに登場して観客を喜ばせるなど、ふたりの関係は今も健在だ。

NENEH CHERRY
ネナ・チェリー

「Buffalo Stance」のヒットで有名なシンガーのネナ・チェリー(Neneh Cherry)は、かつてゴルチエのミューズだった。1990年春のショーでは、回転する円形のセリに乗り、ライムグリーンのスパンデックス カプリにニュークリア オレンジのジャケットとホットパンツのルックで、カメオ出演した。

ODILE GILBERT
オディール・ジルベール

オディール・ジルベール(Odile Gilbert)は、長年、ゴルチエのスタイルを支えてきたフランス人ヘア スタイリストだ。スーパーモデル多数のヘアを扱った経歴のなかでも、JPGのためにクリエイトした或るヘアスタイルは、とりわけ重要な創作に数えられる。2007年秋のオートクチュール ショーのために、なんと人間の黒髪で作ったトップハットだ。ジルベールが考案したトロンプルイユのせいで、曲線のつば部分が前髪に見え、モデルの実際の髪と相まって、思わず二度見するビジュアル効果がある。現在はメトロポリタン美術館に所蔵されている。

PIERRE CARDIN
ピエール・カルダン

ファッションを正式に学んだことのないゴルチエだったが、17歳のとき、カルダン(Cardin)、クレージュ(Courrèges)、サンローラン、ウンガロ(Ungaro)など、尊敬するクチュリエたちへ自分が描いたスケッチを送った 。そして18歳の誕生日当日にカルダンから電話があり、仕事を始める日を尋ねられたことを1986年の『The New York Times』のインタビューで回顧している。若き日のゴルチエはカルダンのアシスタントを1年務めた後、Jacques EsterelとJean Patouに短期間在籍した。

1992年春、グレーのフェイススーツ。1995年秋、コミックスーツ。

PIERRE CARD
QUERELLE (1982)
『ケレル』

キルトのほかにゴルチエでお馴染みなのは、かつてフランスの水夫が着ていたストライプ シャツだ。なんと彼は、色々な種類を合計365枚も持っているらしい。もとはと言えば、子供の頃に船乗りが大好きだったからだが、ジャン・ジュネ(Jean Genet)のスキャンダラスな小説を異色のドイツ人監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(Rainer Werner Fassbinder )が映画化し、アートシネマ界の古典的名作となった『ケレル』も大きく影響している。主人公の筋骨たくましい水兵ジョルジュ・ケレルもストライプを着ていた。以来ストライプはゴルチエのデザインに欠かせない要素となり、深いスクープネックやタンクトップに姿を変えて、センシュアリティを発散した。

ROSSY DE PALMA
ロッシ・デ・パルマ

「ノーズ(鼻)」のあだ名があるスペイン女優ロッシ・デ・パルマ(Rossy de Palma)は、長いあいだゴルチエのミューズだった。1994年秋の「Les Tatouages」やキャバレーのような雰囲気の2014年春のショーをはじめ、何十年にもわたり、独特な美しさでランウェイを歩いた回数は数えきれない。「言うなれば、ロッシ・デ・パルマは私のミューズのひとりだ。彼女には個性がある。彼女の容貌を知ってるだろ? 彼女が彼女であるだけで、ピカソ(Picasso)なんだ。僕はあの特徴が好きだ。生きた芸術だ」と、ゴルチエは2020年に『Vogue』アーカイブス エディターのレアード・ボレリ=ぺルソン(Laird Borrelli-Persson)に語っている。デ・パルマはマドリッドのカフェで映画監督ペドロ・アルモドバル(Pedro Almodóvar)に見出され、ゴルチエが衣裳デザインを担当した『キカ』(1993年)を含め、同監督の作品多数に出演した。

Jean Paul Gaultier のプレタポルテ、1993年春夏、パリにて。(画像提供:Pool ARNAL/GARCIA/Gamma-Rapho via Getty Images) Jean Paul Gaultier初のオートクチュールショー(1998年秋冬)で歩くNaomi Campbell。(画像提供:Pierre VERDY / AFP) (画像提供:PIERRE VERDY/AFP via Getty Images) 1992年春夏コレクション、Jean Paul Gaultierのアレンビックハット。(画像提供:Pierre GUILLAUD / AFP) (画像提供:PIERRE GUILLAUD/AFP via Getty Images)

SCENT
パルファン

曲線的な女性の体を象った「Jean Paul Gaultier Classique」パルファンのボトルは、化粧台に立つ官能のシンボルだ。1993年に発売されたゴルチエ初のパルファンは、オレンジの花、ジンジャー、ライス パウダー、バニラをブレンドした芳香を解き放った。一足遅く1995年に発表された男性用コロン「Le Male」のボトルは引き締まった男性の体形で、ちゃんと股間の膨らみまであるうえ、ストライプを着ている。

ボトルのパッケージをメタル缶にしたのは、1970年代、愛猫にエサをやっているときに閃いたアイデアだ。当初は缶を素材にしてブレスレットを作ったが、不発に終わった。メディアはブリキのジュエリーに興味を示さなかったと、アンドレ・レオン・タリー(André Leon Talley)は書いている。2013年の『Harper’s BAZAAR』に掲載されたゴルチエの説明によると、後年キャットフードの缶をパルファンの容器に使ってようやく、「美しさは思いもがけない場所で見つかるし、インスピレーションは予期しないときに訪れることが証明された」

LES TATOUAGES
タトゥー

1994年春の「Les Tatouages」は、ピアスやタトゥー柄のメッシュ トップや頭飾りで多文化への愛を溢れんばかりに表現した素晴らしいコレクションだった。『Vogue』が「異文化を調和させた驚くべきビジョン」と形容した多要素の混合は、好奇心旺盛なゴルチエの内面世界を垣間見せるものだった。トルクメン風ジュエリ―のような東洋の影響があり、アフリカのマサイ族を思わせる幾重ものネックレスがあり、顔面ピアス、手や腹部のトライブ タトゥーがあった。一方で、ドルやルーブルの記号をプリントしたタトゥー柄のシアなストッキング トップス、フランス宮廷から拝借した18世紀のシルエット、「ジャンヌ・ダルク」の鎧には西洋世界が浸透していた。ピアスに関して質問した『New York Times』に、ゴルチエは「原始的な習わしというだけじゃなくて、身を飾る装飾なんだ。例えばタトゥーで体を変えるとか、体をアート作品としてとらえるという考え方が僕は好きだね」との答えからもわかるように、背後にはより大きな世界観がうかがえる。「パンクの影響ではあるけれど、なにかもっとスピリチュアルなものでもある」。確かに、大きなフープ イヤリングにも宗教を象徴するチャームがぶら下がっていた。

UNDERBELLY
恥部

1989年の『New York Times』にバーナディーン・モリス(Bernadine Morris)が執筆したゴルチエ評は、露悪的な表現だった。「チェーン」に見えるジッパー、臀部を露出するチャップス、そして「服装倒錯の男」などがランウェイに登場するショーを観たモリスは、「縫合痕のあるファッション界の恥部だが、方向性はある」と書いたのだ。ゴルチエに関するレビューのひとつだが、尋常ではないデザイナーを理解できなかったメディア関係者によって、同様の批評が数多く書かれた。

VICTOR VASARELY
ヴィクトル・ヴァザルリ

1995年に発表された「Cyberbaba」は、カラフルな円形模様が特徴のコレクションだ。今でも、世界中のゴルチエのアーカイブでお目にかかることができる。「オプ アート」先駆者だったハンガリー系フランス人のアーティスト、ヴィクトル・ヴァザルリ(Victor Vasarely)に感化されたグラフィックは大ヒットし、ほどなくしてクリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)やリファット・オズベック(Rifat Ozbek)のコレクションにも登場した。キム・カーダシアン(Kim Kardashian)、カーディ・B(Cardi B)など、セレブたちがネコにマタタビのごとくサイバードットの魅力に飛びついたのは、何年も後のことだ。「Cyberbaba」のオリジナルにつく値段は今や5,000ドルを下らないが、フローレンス・テティエ(Florence Tétier)がクリエイティブ ディレクターの2022年に、JPGは「Cyberbaba」ルックを復活させた。

1997年秋、レッドのモヘアキルト。1994年秋、ファーパッチベスト。

WESTERN BAROQUE
西洋のバロック

ヒョウ柄プリントのカウボーイ ハット、ルレックス地のチャップ ショーツとお揃いの手袋、さらにレースを纏ったヒップを露出する華やかなチャップス。1989年春の「Western Baroque」ショーには、ゴルチエの聖なる3本柱が明白に宣言されていた。すなわち、遊び心に溢れたハイ ファッション、演劇を思わせるランウェイ、エッジのある際どいメンズウェアだ。

X FACTOR
未知の要素

JPGブランドには未知の要素がある。コラボ要素だ。JPGは、これまでさまざまなパートナーとコラボを行なってきた。比較的小規模なブランドのY/Projectとコラボしたとき、クリエイティブ ディレクタ―のグレン・マーティンス(Glenn Martens)がゴルチエの1995年秋のボディプリント アイテムをリメイクしてバイラルを起こすなど、一体誰が予想しただろう。有名ブランドとのコラボもある。Supremeがゴルチエの1997年秋の「FIGHT RACISM」グラフィックを基に誕生させた「FUCK RACISM」グラフィック ジーンズは、今も根強い人気を誇る。コラボ パートナーがJPGにそれぞれ独自のひねりを加味する、それが共通項だ。

1995年秋、ブルー ヴァザルリー トップ。

YEAST
イースト

炭水化物に話を移そう。2004年、ゴルチエはカルティエ財団のギャラリーで「Pain Couture」展を開催した。「Pain」はフランス語で「パン」を意味する。シグネチャのデザインを文字通りパンで再現し、パンに新たな意味を与える創作だった。マドンナのミサイル ブラには螺旋状に焼いたパンが使われ、焦げた先端が乳首のようだ。一時期在籍したHermèsのためには、「Kelly バッグ」をパンで作った。その他、さまざまなパンのスライスで作ったシフト ドレス、たくさんのバゲットを並べてスカートにした豪華なドレス、マリー・アントワネット(Marie Antoinette)のためにブリオッシュとクロワッサンで作ったウィッグもあった。会場では、ほっそりしたモデルたちが白いシェフの帽子を被り、腰につけたバッスルならぬ木のバスケットにバゲットを入れて、給仕役を務めた。デザイナーになっていなかったらパン職人になっていただろうと言うゴルチエは、「パンの曲線が感じさせるセンシュアリティがとても好きだ。パンには何かセクシュアルで女性的なところがある」と『New York Times』に語っている。ちなみに、このときのゴルチエはパン断ちをしていた。

ZANY
ひょうきん者

ジャン=ポール・ゴルチエはひょうきん者だ。それが如実に表れるのは必ずしもデザインだけではない。むしろ、1995年の春コレクションを取材したCNN Styleのインタビューが絶好の実例だ。会場のフォラン美術館にはカーニバル アートが並べられ、マリオネットや蝋人形もあった。そこでニュース局がインタビューするというのに、ゴルチエは年代物のマジックボックスに入ったところを撮影しようと言い張った。ゴルチエの頭が花瓶に浮いているように見えるからだ。「ファッションの魔法だ!」とゴルチエはレポーターに言う。確かに異色のインタビューではあったが、あのような精密な大胆さがあればこそ、ゴルチエはデザインの定義を書き換えることができたのだ。

Liana Satensteinはブルックリンを拠点とするファッション ライター。9年近く『Vogue』に在籍し、東欧におけるトレンドからBalenciagaの「City」バッグのリバイバルまで、数々のテーマを執筆した。クローゼットの掃除も手伝う

  • 文: Liana Satenstein
  • 写真: Nick Barr
  • アーキビスト&クリエイティブ コンサルタント: Steve Karas from House W NYC
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: May 22, 2024