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  • リカルド・ボフィル:

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    ブルータリズムを超えて

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インタビュー:Thomas Jeppe
写真:Thomas Jeppe
画像提供:Taller Bofill 

Ricardo Bofill「ウォールデン 7 (1975)」 写真:Thomas Jeppe

建築は、社会規模の思考を示す精確なリトマス試験である。新建築、改築、取り壊し。いかなる象徴的な建築物であっても、歴史は常に編集され続ける。リカルド・ボフィル(Ricardo Bofill)は、1963年に、タイエ・デ・アルキテクトゥーラ(建築のためのワークショップ)を設立した。様々な分野を拡大混合したラディカルなアプローチからスタートしたボフィルは、ヨーロッパの伝統の内側と彼方に、核となる造形原理を探し求めた。ポストモダニズムが躍進した1970~80年代に、コンクリートのバロック作品など、フランスで最大規模の集合住宅を誕生させたタイエは、一躍世界的な名声を得る。しかしそれは、泥レンガからスチールそしてガラスに至る長い軌跡上の、単なる節目に過ぎない。そして、社会主義のユートピア的住居と企業による高級住宅開発が、半世紀以上も貫ぬかれたそれぞれのスタイルの狭間で、軌跡を描き続ける。

私たちは現在、「建造物は何を意味するか」という絶えず進化する概念が目前でシフトする特別な時期にいる。この変動は、セメントの柔軟性を証明している。ボフィルがパリ郊外に建造したアブラクサス館は、610戸を有する巨大な公共住宅プロジェクトであり、今日に至るまでのもっとも有名な業績のひとつである。この建物は、絶大なる賛辞から辛うじて回避された取り壊し論まで、あらゆる世論を浴びた。そして、大衆文化に進入する歴史的な建造物になり、1985年にはテリー・ギリアム監督作「ブラジル」、2014年には「ハンガー・ゲーム」のセットとして使用された。アブラクサス館は、刺激を与え続け、本質的に感情に訴える実体、そして何度も名が記される空間なのだ。

バルセロナでボフィル氏と会う前日、私は年代を遡りながら3作品を訪れた。まずは、海辺にのWホテル。まさに新しいガラスの一枚岩。次に、国立大劇場。パルテノン宮殿のエレガントなイミテーション。最後に、Bach 4。地味なファサードに精緻な細部が際立つ、比較的控えめなアパートメント。

インタビューは、ボフィル氏が今も暮らすバルセロナ郊外のタイエ・デ・アルキテクトゥーラ本部で行なった。以前はコンクリート工場だった建物である。机の上には、アブラクサス館周囲の敷地に建築する新開発のスケッチとプランが広がっている。決して、アブラクサス館の「増築」ではない。シンメトリーの一撃によって、ボフィル氏は傑作にサインを付け足すことを招聘されたのだ。

「アブラクサス館 (1978-83)」模型 写真:Thomas Jeppe

分野

トーマス・ウェップ(Thomas Jeppe):まずは、伝説的な話から始めたいと思います。タイエ・デ・アルキテクトゥーラ初期の頃に、あなたは文筆家、画家、彫刻家、哲学者、技術者、数学者と同じ場所で寝食を共にしたそうですね。このアプローチはどこから生まれたのですか?

リカルド・ボフィル:建築を始める前から、分類が知識を妨げると、私はかねがね思っていたよ。知識をいろいろな分野や芸術領域に分類するのは、専門化の目的には便利だが、実際の世界はそんな風に区切られるわけではないからね。社会でも、アートでも、理解しようと思ったら、分野の最前線を突破する必要があるし、カテゴリーの体系を崩す必要がある。建築は、独自の理論の中に閉じこもって世間離れした分野だった。私はそれをオープンにして、自分のプロジェクトを新たなアプローチにぶつけてみたかったんだ。

どのように詩を使ったんですか?

具体的には、私たちはとても優れたな詩人ホセ・アグスティン・ゴイティソーロ(José Agustin Goytisolo)と仕事をした。主に詩の構造、つまり詩や言葉の形式的な構成を研究して、そこから、詩を建築にする方法に注目した。

均衡

「幻想」とはすなわち実際はありえないものですが、若手建築家であった当時、あなたにとって「幻想」は重要な概念でしたか?

それを「幻想」と言うのか「創造力」というのか、私には分からないね。「幻想」は、止めどない空想の流れという意味で、精神錯乱に近い。それとは逆に、「創造力」は集中力によってアイデアを一貫した構造にまとめる。私は生涯を通じて、自分個人の最大限の自由と創造上の最大限の自由を持てる均衡を求めてきた。でも結局のところ、完全な自由というものは、絶対的な快楽と同じで、この世には存在しない。無を追いかけるグレーハウンドのレースみたいなものだ。

現実にありえないことを知る、それがおそらく「幻想」なんですね。しかし、人が自由だと感じる空間を作ることは可能だし、理解して再現することができる 。感情に影響を与えられるというこの点で、建築は興味深いものなります。

私は常に、制御された秩序のある感情で仕事をするし、自分で建築した感情的空間で生活している。一般的に、強い感情を呼び覚ます空間は、卓越に近い空間だ。しかしながら、空間に対する感受性は、誰もが持っている能力ではない。音楽や詩の能力と同じで、持っているかいないか、どちらかだ。感情的な観点から見ると、この感受性によって人は空間を理解できる。私は人生をかけてこの感受性を育んできた結果、海の只中や、高い山の頂上や、広大な砂漠で湧き上がる感情にまさしく圧倒される。ミケランジェロが作った階段を上るときもね。

過去何十年も、一貫して、大規模な空間を建造されてきましたね。力強い形状や歴史的な関連性を多用して、人為性を隠そうとしない。そういう明らかに人工的な空間にいると、演劇が主要なモチーフだと感じます。

都市での生活、実際には生活一般を、私は常に演劇として捉える。例えば、ここバルセロナのランブラ・デ・カタルーニャ通りは、人々が歩き、人々が観察し、観察している人々を見ながら人々が歩いている場所だ。つまり、表現空間だ。都市空間を演劇化できる、それを教えたいと思った時期もあった。この演劇性を認識して育む上で、例えばアブラクサス館はとても意識的な試みだった。



アブラクサス館

私は映画「ブラジル」に取り憑かれて成長したんです。大人になってアブラクサス館に足を踏み入れたときは、あの映画の空間、子供の頃から知っている心理的空間に入ることを意味しました。アブラクサス館は演劇的ですが、非常に強調され誇張されている点で、日常生活の演劇性とは異なります。マンガ的な空間になるぐらいの誇張です。一歩中に入ると、現実ではない感じがします。

君のその描写には、私も完全に同意するよ。私は、あの空間を、まさにそういう風に作りたかった。それ以前にいろいろと経験を積んだ後で、過度に演劇化された空間を作りたかったんだ。その感覚を、演劇性の極限まで押し進めたかった。そして、建築にまったく無知な人々が建築の存在を実感するぐらい、決定的に力強い空間を作りたかったんだ。そういう意味で、アブラクサス館はマニフェストだ。可能な限界ギリギリの建築のひとつだ。それ以上の先は、異常なレベルの建築しかない。

あなたがおっしゃるように、アブラクサス館が辿り着いた限界は、「幻想」の寸前なのかもしれません。私にとって、この非現実性は、ミシェル・フーコー(Foucault)が提唱したヘテロトピア、現実と非現実の狭間にある空間、分類できない空間という概念を集約するものです。アブラクサス館に足を踏み入れると、ヘテロトピアの感覚が生まれました。概念としての空間の具象化です。

あれを建てたとき、ミシェル・フーコーとは良い友達だったんだ。いろんなことを話したものだよ。私は、彼の思想や概念にとても共鳴していた。飛び抜けて優秀な言語学者であり、哲学者だった。私は、アブラクサス館を訪れ、そこで生活する人々に、空間の強い感情を体験して欲しかった。設計し、知恵を絞り、構想した私自身でさえ、それほど力強い印象を受けるんだ。あの建物を壊そうという話は何度もあったが、結局、誰にもできなかったね。私は、世界各国から来て、アブラクサス館に住んでいる人たちと話をしてきたよ。フランス、アフリカ、中国。いわば全員が没頭して、演劇に参加している。あの空間には磁力があって、誰もその磁力を手放したくないんだ。アブラクサス館の住人が昔パーティを企画したことがあってね、自治体も協力して、ダンスやパフォーマンスのある集会だった。社会的な背景も文化も異なる人たちが、共同体という感覚の下でひとつになった。取り壊しをたくらんだ政治家はいるけど、ののパーティのおかげで壊されずに済んだんだ。

絶対主義

形式的に、アブラクサス館はバロックの美学を反映しています。バロックは、公共空間が劇的な形状を持つようになった歴史的に興味深い時代ですが、1980年代のあなたの非常に大規模なプロジェクトには、絶対主義の傾向も流れているように思います。フランス・モンペリエのアンティゴーヌ地区のプロジェクトも思い浮かびます。あなたは社会主義者としての基盤から公共建築を志向されていますが、絶対主義的空間についてはどう思われますか?

私の建築をそんな風に形容した者は誰もいないよ。絶対主義を、君はどういう意味で使っているのかな?

視覚的にも象徴的にも、状況全体が権力を中心とした具象化を指向する建築です。歴史上の絶対主義は倫理的に問題のある権力の統合を表しますが、今日の政治における絶対主義は、はるかに不確定で曖昧です。現代の絶対主義は、全体主義を暗示するものではないけれど、空間ないの主観性を暗示して、大衆がその建物の支配下に置かれるのです。

精神を条件付けるという意味では、これらのプロジェクトは絶対主義建築だよ。条件付ける空間なんだ。最高の状況の実例ではあるが、建築があるべき規範的な基準ではないんだ。建築の歴史には、支配的な単一の観点に沿って作られた空間がたくさんある。モニュメントはそうして作られる。しかし、アブラクサス館の中を移動してみたら、常に変化することに気付くだろう。ひとつの焦点、それ自体で中心的力というものはない。多様な観点の動的な建物だ。バロックは、建築に初めて動きを導入し、空間に時間と運動が編み込まれた。ウォールデン7と同じように、アブラクサス館はこちらの考えに分類される。ウォールデン7やアブラクサス館は、それを生み出すために作られたんだ。私には、ルイ14世その他と同じことをするつもりはなかったし、そんな風には考えなかった。

ウォールデン

今日、初めてウォールデン7を訪れました。あそこには、アブラクサス館のいくつかの青写真が見て取れます。何かをひとつの方向に向けることが可能だという意味では、最善のアプローチがあり、スペイン固有の伝統もあります。アブラクサス館では、それがコンクリートのブルータリズムに変わります。同時に、ウォールデンとアブラクサスには、共に、迷路のような絶対主義が通っています。ウォールデンは土地固有の絶対主義で、アブラクサスの方はコンクリートの絶対主義というわけです。

面白いね(笑)。ある時期、私は、建築や都市計画を実践する新しいシステムが必要だと考えたんだ。新しい都市像を構想する方法だよ。そこから、「空間の中の都市」という理論を発展させた。人とコミュニティの必要性に応える都市を具体化する理論だ。この理論からは、ほんの少しのプロジェクトしか実現しなかったが、ウォールデン7がそのひとつなんだ。

ウォールデン7は、柔軟性や再配置を可能にするために、アパート間のモジュール方式が設計されています。

その通り。しかし最終的には、ウォールデンの住人たちが空間を自由に使ってきた。そこで幸せに暮らして、みんな満足して、自分たちで日常のルールを決めて、自分たちのコミュニティを育ててきたんだ。ある面では私の構想と似ているし、ある面では私の構想よりもずっと保守的だね。

Ricardo Bofill「ウォールデン 7 (1975)」航空写真 写真提供:Taller de Arquitectura Bofill

Ricardo Bofill「アブラクサス館(1978-83)」写真提供:Taller de Arquitectura Bofill


Ricardo Bofill「ウォールデン 7 (1975)」写真:Thomas Jeppe

Ricardo Bofill「アブラクサス館(1978-83)」写真提供:Taller de Arquitectura Bofill

モニュメント

モニュメントの持つ意味は、30年前と同じだと思いますか?

現代は複雑な時代だ。建築は、常に、モニュメント性と機能性の間で揺れ動くだろう。人間の必要性の両極なんだ。だからこそ、建築の記号論も解釈も変化する。特に、現在では難しい質問だな。ルネッサンス期に伝統的に考案されたような歴史的なモニュメントは、サスティナブルな都市の概念とは共存できない。現在は、生態系に配慮した、居住可能な、参加型の空間のモニュメント化ならありうる。

建築家はみんなモニュメントを作りたがるものだ。それによって、スタイルを作って、ブランドを広めるんだ。しかし私は周辺の建築も好きなんだ。貧困の建築、欠乏の建築。私が既存の建築に初めて興味を持ったのは、地中海固有の建築なんだ。私がまだ建物を建て始めるずっと前、イビザ島で目にした。北アフリカにも、スペイン南部のアルメリアにも、ギリシャにもあった。地中海の原始的な建築で、建築自体は基本的にどこも同じだ。その後、その建築の起源を追究する旅に出た。もっと南下して、最後に砂漠の建築、そして自然の非建築に行き着いた。素材は岩、エネルギー源は風。風が岩に当たって、砂を作られる。あれは、地中海からアフリカへ、ピュアでミニマルな要素の世界への旅だった。あれこそ、トゥアレグ人が作り出した環境なんだ。サハラ砂漠の真ん中で、手の届く範囲の素材を使って、考え方や生活様式に則ったとてもシンプルな形を作る。私たちの人生哲学とは大きく異る。それが好きなんだ。それに、ある意味で、文化的にはとても貴族的でもある。非常にミニマルで、非常にシンプルで、非常にみすぼらしい。なぜなら、モニュメント主義は、たいていの場合、贅沢と関連するからだ。私の信念では、贅沢と美は全く別の異なるコンセプトだ。

トゥアレグのモニュメント主義というのは、考えられますか?

それが現実的だと思うかい?

分かりません。トゥアレグは非永続性の様式である一方、モニュメント主義には持続的な面があります。

トゥアレグ人の私の友人、ラシム(Rashim)は、自分で賄える素材で家を作る。トゥアレグのモニュメント主義は、内部にある。

彼は定住用の家を所有しているんですか?

遊牧生活の後の、定住住宅だよ。遊牧生活をしていても、トゥアレグの文化には、火や、ラクダや、水などを上手く割り当てる独自の建築がある。全て、幾何学的な観点から考え出されているんだ。気まぐれで決まることなんて決してない。時間や空間を構造化する必要性から、彼らの建築は幾何学的になっている。それが自然空間の中でも作用するんだ。私が砂漠にまで旅をするのは、こういうピュアな幾何学を理解するためだ。フランスの宮殿にいるよりも、砂丘や砂だけのサハラ砂漠の真ん中に独りでいる方がずっと学べることが多い。まさに、私が言いたいのは、モニュメントはどこにでも存在できるということなんだ。京都の小さな庭園にでも、トゥアレグ人の家でも、私の別荘にさえモニュメントという概念を見付けることができる。それがユビキタス モニュメントという考え方だ。

では、モニュメントはスケールと関係がないと。

ないね。モニュメント性というのは生活を儀式化するところから始まる。生活を儀式化する必要性が出てきたら、モニュメント化が現実的になる。今は、将来のはっきりしない不確実性の時代だ。2000年までだったら、用意周到な人物なら、将来の予測を立てることや予知することができた。だが、2000年以降はこうしたことができなくなってしまった。不確実な時代には、著作や声明や簡潔で多様な行動など、小さな表現行為が必要になる。流動的な世界での小さなモニュメントだ。それらは、ある意味で、現代社会で出来る唯一の仕事なんだ。

ヴァナキュラー

今、ヴァナキュラー(その土地の固有性)は極めて重要になってきています。流動的で機知に富んでいて、それでいて自然体で。

イビサ島にあるヴァナキュラーな家は、私の初めての仕事なんだ。叔母のための家だった。60年代に私は、初めてイビサ島の外から島に来て、ありのままの島を発見した人間のひとりだった。私は当時ジュネーブに住んで勉強中で、そこから建築科のクラスの仲間とこの家を建てに行っていたんだ。観光が盛んになる前のイビサ島の建物は、全て現地調達の材料で建てられていた。岩から、梁のための木から、屋根に使う海藻まで全部。これらの材料を用いて、イビサ島の住民は立方体を作って、それを自分の初めての家にしたもんだよ。そして、家を拡張する必要ができたら、隣りに新しい立方体を作っていく。それを繰り返していって、ヴァナキュラーな家が生まれるのだ。その土地のありのままの材料で作られて、美的にも美しくて、ミニマルで、空っぽなんだ。そこに住む人の生活に最低限必要なものだけに対応した建築だ。それが私には強いインパクトを与えたんだ。

それは、あなたがずっと探し求めてきた均衡性のお手本のようですね。

そうだ。そしてあの時代は、イビサで初めてパーティというものが催されはじめた頃でもあった。解放のためのパーティ、自由を最大限に表現するためのパーティで、何もかも可能だった。そこでは、初めてのことを手あたり次第に試していた。初めてのアシッド、初めてのドラッグといった具合に。本当の意味での自由があったし、あらゆる自由が探求されたんだ。

音楽

当時、音楽はあなたにとって重要でしたか?

そうだね。今でもだよ。

どんな音楽ですか?

自分が合わせたい気持ちのテンポにもよるね。もし気にかかることや心配があるなら、バッハ(Bach)の音楽はエネルギーを落ち着かせるのに適した構造になっているよ。私はバッハがとても好きなんだ。けれど、その土地に根差したヴァナキュラーな音楽も好きだよ。ポップスとか良いテクノなんかだね。ダンスミュージックは好きじゃない。私をかなり下品にさせてしまうからね(笑)。Laughs]

私にはアシスタントとして建築の学生がいるんですが、彼はテクノに熱狂しています。彼と話をすると、テクノミュージックと建築の間には強い類似性があるんだと思わされます。どちらも工業的で、リズミカルで、数学的で、それでいて感情を発生させて操作するよう調整されている。

テクノは私にとっても、とても重要なんだ。テクノの数学的な構造にも確かに惹かれるけど、バッハのパルティータを聴いて、テンポの根底にある構成を読み解いてごらん。もし次にくる音があらかじめわかれば、数学を理解したことになる。バッハも同様に音楽の数学者だよ。私は音楽を二通りの聴き方をするんだ。ひとつは受け身で、音楽をありのまま身体に受け入れる。もうひとつは能動的で、聞いている音楽よりも前を行く。音楽と向き合うには二通りの姿勢があるってことだね。

ナイトクラブを設計したことがありますか?

あるよ。かなり前にバルセロナでね。まるで劇場みたいだったよ(笑)。

もちろんですね。そこでは、どんな音楽がかかっていたんですか?

70年代、80年代だからディスコの時代だったね。

クラブを設計するための基準はなんだったんですか?どういったことを満たす必要がありましたか?

空間と時間、音楽と建築の関係を満たすことが必要だったね。私は数多くの音楽ホールを作ってきた。そして、長い時間をかけて、音楽と建築の関係を理解しようと努めてきた。基本的に私は、音楽は時間の尺度、建築は空間の尺度だと考えている。時間と空間が、人間を条件付けるふたつのパラメーターであり、人間の中で合わさったときにひとつのパラメーターになるんだ。

リカルド・ボフィル氏のスタジオである「ファクトリー」写真:Thomas Jeppe

人間

それほど人間の尺度に関心を持ちながら、どのようにしてこのような劇的に巨大なプロジェクトを取り組むようになったんですか?
小規模なものから大規模なものへ進化していったのには3つの理由があるんだ。まず、私は都市とその計画に興味があった。次に、小さな尺度のプロジェクトでは、クライアントの発言力が強すぎて、好みの問題が仕事に大きく影響するし、前に進むのが難しい。そして最後の理由は、大きなスケールに移行することがもたらす知的な挑戦のためだ。小規模から大規模へと移行するには、小規模と中規模のスケールに精通していることが必要とされる。だから、作業を通してそれを試したかったし、自分の思い違いを問い直してみたかったんだ。この道のりは挑戦であるし、必ず失敗に終わるんだ。スケールが大きくなり過ぎると、建物は完全に個人の手を離れ、感情移入は減少していくんだ。アブラクサス館は、個人的なスケールをうまく公共の規模に置き換えた最高の見本だよ。アブラクサス館よりも大きいものは、全てバカげたものになってしまう。しかし、スケールがいつもいちばん興味深い要素というわけではない。私は若くして成功することができた。30歳や35歳で、もっとも有名な建築家のひとりとして知名度も名声も得た。だからそれ以降、自分自身の課題は、他の可能性や今まで違う制作過程を探求することだった。私は偏狭な人間ではないし、建築の中でひとつの考えを広めることよりも、色々なことを調べて変化していくことに興味がある。私は色々と実験してみるのが好きなんだ。

実験を繰り返すという側面は、幅広い作品に一貫性をもたらしてきました。あなたは数多くの場面で、燃え尽きる一歩手前までいったのではないですか。プロジェクトが終わったときには、どんなお祝いをするのでしょうか?

プロジェクトが完成しても、私はお祝いなんてしないよ。私はプロジェクトを思い付いた時に祝うんだ。まっさらなページの前で集中している時、その瞬間に満足があるんだ。理屈やシステム、感情を生み出そうとしている時、私は祝うんだ。しかし、プロジェクトが終わった時、私には欠点や自分の失敗だけが見える。それは祝うことじゃない。私は自分のもっとも厳しい批評家なんだ。それは実用的な理由からだ。何か新しいクリエーションを可能にしてくれる唯一のものは、自分の仕事に対する批評だからだ。私の仕事を理解するいちばんの方法は、それぞれの建物を以前にやった仕事の批評として読み解くことなんだ。

最前線に立つことが絶対に重要だとおっしゃっていました。新しさに対するあなたの立場はどのようなものでしょうか?

前衛でいるということは、道徳的で知的な立場なんだ。未来の建設に携わっているということなんだ。しかし、本質的に絶対的な先駆者なんていない。私が若かった頃、完全に新しいものを作ることは実現可能だと思っていた。今は、建物の20%が新しければ、それだけでもう十分だということがわかる。「新しい」ものであろうとすることは高潔だけれど、新しいものだけでは何も建てることができない。そう思わないのは考えが甘いんだ。

この方程式では、伝統は避けられないことになります。少なくとも80%はそうです。この話題で、以前、あなたがブルジョワや中産階級、そして伝統的な家族の価値を理解し、新陳代謝させるために努力をしたが、それはそれらの価値を転用するためだと言っていたのを思い出します。

ブルジョワの家族は、経済的な利害から生まれて来たんだ。それは一定の規律ある資本主義社会の構成要素だよ。問題は、それらの分け前に誰もがありつけるようになれば、支配制度は腐敗し、堕落するようになる。しかし歴史的に、個々の人間はいろんな種類の関係に関わっていた。伝統的な家族はそのひとつだ。より国際的な目で見ると、様々な社会的形態や階級、嗜好、そしてつながりが可能だということがわかるし、なおかつそれが必要だとわかる。知性とエネルギーも使って、そうしたルールと決別すれば、何だって可能なんだ。境界線はとても細いけれど、人生で面白いことはいつもこの細い線に沿って起こるもんなんだ。創造と破壊の間、クリエイティビティと狂気の間に横たわっているんだ。この境界線に沿って歩くことは、とても複雑で難しいけれど、とても面白いもんだよ。そうすることを人に勧めるかどうかはわからない。誰にでもできるわけじゃないからね。

あなたの建物の多くを遊びという観点から考えています。知識、構造、建築的歴史、場所との遊びです。遊びは、今おっしゃっていた境界線の上を歩く行為です。

そして、それはいつも簡単なわけじゃない。先鋭的なポイントに到達するためには、伝統的な側面も理解しておく必要があるんだ。ブルジョワ家族制度をぶち壊すためには、まずはその成り立ちを理解する必要があったように。私は20年間パリに住んでいた。そしてフランスのシステムを理解した。つまり本当の意味でのシステムだ。というのも、フランスには全ての人のためのシステムがあって、もうひとつは特別な人のためのシステムがあるんだ。それは、外からは入れない社会的な特権階級で、ナポレオンが作った学校である、グランゼコールという大きな学校に所属している。それは、完全に縦関係の密閉された階級なんだ。そして、こうした人々が社会を支配しているんだ。

パリに住んでしばらくして、私はフランスの特権階級の人物と知り合ったんだ。ある日、私は当時のフランスの大統領だったミッテラン(Mitterrand)と中国の国家主席が開いたパーティがあってエリゼ宮殿(大統領官邸)に呼ばれた。そこには中国とフランスの特権階級が集まっていた。彼らは晩餐会を開いて、私は大企業の重役のちょうど後ろに座っていた。バイオリンの演奏があり、食事が運ばれて、かなり大掛かりなパーティだった。それぞれと挨拶を交わし宴も佳境に達した頃、私はその大企業の重役に聞いたんだ。「どうして私はここにいて、あなたはそこで、あの人はあっちにいるんだ」って。そしたら彼は「あ、それは私の番号が39番だからここにいて、あなたの番号は私の後ろだから40番だ。あちらの人はフランスの特権階級のリストの〇〇番の方だ」って教えてくれた。私たちは、ミッテランと彼のチームが作り上げた制度に沿って席に就いて、我々一人ひとりが階級の中に組み込まれていたんだ。だから私はこう言った。「ああそうか。じゃあ、私は失礼させてもらうよ。階級の階段を上ることに興味はないからね」って言ったんだ。

タイエ・デ・アルキテクトゥーラで机に向かうリカルド・ボフィル氏」写真:Thomas Jeppe

Ricardo Bofill「ウォールデン 7 (1975)」写真:Thomas Jeppe

Ricardo Bofill「ウォールデン 7 (1975)」写真提供:Taller de Arquitectura Bofill


タイエ・デ・アルキテクトゥーラにある建築模型 写真:Thomas Jeppe

タイエ・デ・アルキテクトゥーラの掲示板 写真:Thomas Jeppe

タイエ・デ・アルキテクトゥーラで机に向かうリカルド・ボフィル氏とアルフレド・アンドニ(Alfredo Andonie)氏 
写真:Thomas Jeppe

「ファクトリーの大聖堂(1973)」写真:Thomas Jeppe

インタビュー:Thomas Jeppe
西英翻訳:Alfredo Andonie Kraushaar
写真:Thomas Jeppe
画像提供:Courtesy of Taller Bofill