ドバイの美の伝道師、タラ・サーマンの冒険

カリスマ美容ブロガーがルーツのアラブ首長国連邦を語る

  • インタビュー: Julia Cooper
  • 写真: Tala Samman

何もかもが公開され、ツイートも文章も、そもそもアメリカ国家安全保障局(NSA)のメタデータであるとわかった今、プライバシーの幻想はすっかり薄れてしまった。オンラインで美容を指南する動画を見ながら、そこに映り込んだバスルームもチェックして何が悪いというのか。メイク動画や完璧な自分の本棚写真といったデジタル分野が見せてくれるのは、日常と美の融合だ。これを見ている間だけは、昨今の地獄のような政治状況から、一時的に目を逸らすことができる。7分から10分程度の、つかの間の緩和剤なのだ。

2017年、フォーブス誌は初めて、年に4回公表するランキングで美容関連に特化したセクションを設け、稼げるインフルエンサーを発表した。美容インフルエンサーたちは、ショッピングや完璧なキャットアイ メイクに対する私たちの愛を臆面もなく満たしてくれる。そうすることで、最近まで誰もがつまらない時間つぶしだと小馬鹿にして見下してきた業界で、キャリアを築いているのだ。広告効果の測定基準が掴みにくい市場で、退屈した10代の少女たちが、コスメの戦利品を動画で紹介するYouTubeチャンネルを立ち上げ、自分の親や友人よりもはるかに多く稼いでいる。膨れ上がる「合計リーチ」と測定可能なインプレッションの登場により、今メイクアップにお金が流れている。

美容インフルエンサー経済はまだ登場したばかりで、アメリカ以外の国ではさらにその歴史は浅い。だが、状況は急速に変化しつつもある。ドバイを見てみよう。首長国ではWhatsAppや安定したWiFi環境が望めないにも関わらず、デジタル分野における若い成功者を数多く輩出している。彼らは世界のファッション都市と自国を行き来しながら、首長国がファッションの中心となるよう尽力している。

「私が若い頃は何もなかった。あるのは砂漠だけだった」とタラ・サーマンは言う。彼女が話題に上るようになったのは、メイクアップのカリスマ、フーダ・カタン(Huda Kattan)と同時期だが、スポンサーとのコラボレーションや限定リップ キットが注目される以前から、彼女はブログを運営していた。彼女の運営するmyfashdiary.comは、アラブ首長国連邦を拠点にするこの手のサイトでは、いちばん早くに登場した。これは、フーダ・カタンの2年前、フォーブス誌が「美容界での影響力」のランキングを公開する価値ありと考える8年前のことだ。元「Style.comアラビア」担当のライターであり、Tom FordとHalstonでインターンを経て、タラは現在、変わりゆくドバイを映し出すライフスタイル サイトのキューレションを行なっている。彼女はペルシャ湾沿岸のビーチや「中東のビバリーヒルズ」として知られるジュメイラ郊外を自分の家だと言い、ここ5年間で、自分の街がインフルエンサーの供給地へと変容するのを見てきた。まさに、美のなせる技である。

第一人者であること

ドバイという都市は、建築やかっこいいコンセプトなどの点では、いつも本当に一歩先んじているけれど、常に遅れをとっていることがひとつあるとすれば、それはインターネットだと思う。イギリスやアメリカがやっていることは何でもここでは数年は遅れている。ブログ界の市場がここまで飽和状態になり始めたのも、ごく最近のことよ。私がブログを始めた頃はここには全然ブログがなかった。とはいえ、イギリスにもそれほど多くのブログは存在していなかったわ。ロンドンのブロガーは5、6人だったと思う。私たちはみんな、いつでも全く同じイベントで顔を合わせていたから知ってるの。ドバイに戻ってきた当時は、ドバイのブロガーは私だけだったわ。

お金を受けとること

実は、私が最初に参加した会議はP&Gとだったの。18か19歳の頃。そのときは、ただ彼らにブログがどういうものかを説明するものだった。そして私の最初のプレスツアーは、フーダと私だけだった。今でこそ、彼女は世界的に知られているけれど。最初の5年間はこの地域には一握りのブロガーしかいなかったのよ。

生まれのこと

私の両親はともにシリア人で、母はシリアで育ったけれど、父は違ったの。彼はクウェートで育って、その後アメリカでも暮らしていた。ワシントンD.C.で勉強して、仕事をしていたわ。クウェート侵攻と湾岸戦争があったから、クウェートとの間を行ったり来たりしていて、最終的にドバイに引っ越すことになった。私はシカゴで生まれたのだけど、子供時代をほとんどドバイで過ごしたわ。学校時代はほぼドバイで、18歳のときに大学に行くためにロンドンに移ったの。ロンドン カレッジ オブ ファッションで、4年間勉強して、ドバイに戻ったわ。

砂漠への帰還

最初は戻って来たくなくて、ちょっとの間アメリカに行きたかったの。でも結局、この地域でローンチするコンデナスト初の出版物の仕事があったから、戻ることになった。実際はまだ大学にいた頃に出版社から引き抜かれたようなものよ。結局6ヶ月後にその仕事をやめて、それから他のことや自分のブログに集中することにしたの。

最初のインフルエンサーだった母親

ピーター・コッピングは当時Nina Ricciのデザイナーをやっていて、その後でOscar de la Rentaに移ったのだけど、その彼が母のためにバッグをデザインしたの。母はそのブランドの物を持って旅行して、この地域での買い付けにも携わっていた。私は母のようにオシャレをするのが大好きな少女だったわ。でも、今、私のサイトは以前に比べてずっとライフスタイルよりになってるわね。

紙媒体は死んだ、紙媒体よ永遠に

私は今でもまだ、アメリカの紙の雑誌をすべて購入しているの。毎月よ。イギリスの雑誌を買うこともあるけれど、地元の雑誌はまったく買わないわ。

あくまでファッションのため

ファッション メディアとコミュニケーションを勉強したんだけれど、その4年間、自分のための時間なんてなかった。実際、朝6時には大学に行って、帰宅は夜遅くになってからよ。在学中、インターンもやっていたから。私はロンドンのTom Fordのオフィスで働いていて、同じ時期にニューヨークのHalstonでも働いていたの。サラ・ジェシカ・パーカー(Sarah Jessica Parker)がHalston Heritageのデザインを手がけ、マリオス・ショワブ(Marios Schwab)がメインブランドのデザインをしていた頃よ。

成長する砂漠の街

今ではここにもたくさんの人がいるし、以前よりずっと多くのデザイナーやブランドがドバイに来たがってる。数年前なら、新しいブランドが立ち上がっても、世界展開しているブランドのどこも、この街には来なかった。彼らにとっては優先順位が低かったのよ。2012年にコンデナストで働いていたときのことだけど、出版社のグループはヴォーグをドバイで展開したいと考えていたの。当時は、それはありえないことだった。CEOは、中東でヴォーグを始めることは絶対にない、と言っていたわ。それから事態は大きく変わった。数々のブランドが絶対にありえないと考えていたことが、ここ数年で次々と起きている。

慎みなど

時々、「ドバイでこんな服を着るなんてありえない」みたいな、怒りのコメントをもらうことはあるわ。でもドバイに関していえば、それほど保守的な街でもないのよ。アラブ首長国連邦の中の他の首長国に比べれば、いちばん厳格じゃない。アブダビならこういった服に関する批判ではこの程度じゃ済まないわ。どの国も本当に様々だと思う。クウェートやバーレーンはもう少し保守的ね。
ドバイでは、モールに行けば袖のない服やショートパンツなんかを禁止する標識を見ることがあるでしょう。確かに、海外に出ればもう少し自由な格好をするかもしれないけれど、それは別に、ここだと叱られるからではないわ。私自身が落ち着かないという理由の方が大きい。実際のところ、みんな自分の好きな服を着ているのよ。

Julia Cooperはトロント在住のライタ−である

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