少女から女へ:
9本の映画に見る喪失と変容のファッション

ちぐはぐな自己改造、10代の性、ぎこちない過渡期

    つまるところ、何かが形作られていく過程に、私たちは心を奪われる。無垢や純潔を喪失して大人へと変容していくストーリーには、私たちが永遠に脱することのできない魅力がある。自己不信、性の目覚め、家族との緊張関係などは繰り返し登場するテーマだが、もうひとつ、周囲の環境に向かって、思春期の若者たちがひたすらに主体者としての権利を主張する様にも、私たちを虜にする引力がある。大人への過渡期を迎えた若者たちは、行為だけでなく、目に見える形の自己表現としても権利を主張する。何を着るか、どう着るか…そこに、経験を手探りしながら進んでいく子供時代の最後のイノセンスが現れる。『ミーン ガールズ』のJuicy Couture、『アウトサイダー』の反抗的なLevi’s 501、バズ・ラーマン(Baz Luhrmann)監督『ロミオ+ジュリエット』でクレア・デインズ(Claire Danes)を初体験へと飛び立たせた天使の翼。少女から女への変容を描いた心に残る映画とそれぞれの少女の内面を象徴したファッションを、9人のライターが選んだ。

    『Fat Girl』(2001年)、ワンピースの水着

    カトリーヌ・ブレイヤ(Catherine Breillat)が2001年に発表した意欲作は、フランス映画であるにもかかわらず、英語の『Fat Girl(邦題:処女)』が原題だ。名作や傑作のみを扱って世界的に高く評価されるクライテリオン コレクションに、ブレイヤは「ファット ガール – 太った娘」は単刀直入で、断言的で、アメリカ的で、「ジャズの一節みたい」と説明している。(事実その通りで、フランス人には耳障りだったため、フランス国内では『A ma soeur! – 私の姉へ!(または、私の妹へ!)』と妥協したタイトルで公開された)

    アナイス・ルブー(Anaïs Reboux)が演じるバケーション中の12歳の少女アナイスは、グリーンの水着姿で、大半の時間をプールで過ごしている。円形のカラー チャートで、グリーンの反対側にあるのはレッド – ほっそりした美人の姉エレナは、『ベイウォッチ』の救命隊員が着ているような、レッドのビキニだ。アナイスはワンピース。胸元がタンクトップのように大きく丸く開いたデザインで、背中は深くカットされている。肥満した体を包んで、前の部分にはまったくたるみがない。水分を含んだ生地は、出っ張ったお腹も膨らみ始めた胸も、むっちりした曲線をあますところなく露わにする。意思に反して体が勝手に変化していく、思春期の屈辱を思い出させる水着だ。

    アナイスは、昼食のときも着替えない。ビッグ バードと同じイエローのもこもこしたバスローブを羽織った下に、鮮やかなグリーンがのぞいている。うつむいた視線は、目の前、誰よりも大量によそおった皿の上の食べ物に注がれている。人参の細切り、チェリートマト、一切れのカンタロープ メロン、マヨネーズたっぷりのポテトサラダの山。食卓を囲んだ誰かがアナイスの体と食欲を揶揄して「豚」と呼んでも、食べることを止めたりはしない。

    セックス未体験のアナイスは、無垢の崖っぷちにぶら下がっている。水着でプールの周辺を闊歩するとき、未だ乱されていない無頓着と反抗心がうかがえる。露出した肌を陽光が温め、肉体は恥辱を知らない。アナイスは、まるでホイップクリームであるかのように、缶入りの日焼け止めを脚に塗りつけていく。エクレアの上に絞り出すカスタードみたいに分厚く噴射した泡を、物憂く肌にすり込む様子は官能的ですらある。異性の目で自分を意識しない。そんな少女らしさは、結末を迎えるまでに手荒く奪われてしまう。確かに悲劇的な事件に遭遇はしたが、アナイスを被害者と呼ぶのは誤りだろう。アナイスは少女であることを終えて、女になるだろう。そして、あの水着を着ることは、もうないだろう。

    プールに入る階段や飛び込み台の柱は、アナイスの空想の恋人だ。キスして、語りかける。「女は石鹸じゃないのよ。使っても、すり減って無くなることはないの」。アナイスの水着の色は私にライムを連想させたが、それよりは多分、洗剤のパーモリーブや石鹸のアイリッシュ スプリングに近いかもしれない。それとも青リンゴの皮と言ったほうが正確だろうか。あるいは甘くてハーブの風味のフランスのリキュール、シャルトリューズ。もっといいのはハーレクイン グリーン。ハーレクインとは「伝統的なパントマイムの無言のキャラクターで、大抵、マスクをつけているキャラクター」を指す。同義語は、ジョーカー、道化師。映画では、たいていの場合、主人公の太った友達という助演の役回りだ。ただし『Fat Girl』のアナイスは、コミカルな息抜きでもジョークの落ちのような存在でもない。

    Simran Hansはロンドン在住。『The Observer』紙のライターであり、映画批評家である

    モデル着用アイテム:ジャケット(Wacko Maria)

    『Christiane F.』(1981年)、サテンのボンバー ジャケット

    土曜の夜だ。13歳のクリスチーネは、ディスコに行きたくて仕方ない。心ここにあらずの母親や妹と暮らしている西ベルリンのアパートで、窒息しそうな状況に「死ぬほど退屈している」。クリスチーネ・フェルシェリノヴ(Christiane Felscherinow)が自らの青春を記録して賛否両論を引き起こした実話『Wir Kinder vom Bahnhof Zoo(邦題:われら動物園駅の子供たち)』(1978年)を基に、ウーリ・エーデル(Uli Edel)が映画化した『Christiane F.(邦題:クリスチーネ・F ~麻薬と売春の日々~)』(1981年)は、典型的な成長の物語であり、収まりのつかない吐き気の気配が充満している。虫唾が走るような中毒の始まり、そして年若い主人公がクスリのために講じる苦痛に満ちた手段に至る前から、それほど過激ではないものの、10代特有の、欲望に身を任せる行動を私たちは目にすることになる。

    クリスチーネがハンドバッグ代わりに持ち歩くプラスチックの袋には、母親のハイヒールがしのばせてある。履き古したスニーカーから履き替え、気取って歩いて、新しく出来たクラブ「サウンド」へ向かうのだ。16歳以上に見えないと、中に入れてもらえない。だが年上に見せる効果を奏しているのは、歩道にあたってヒールが立てる音ではなく、チラチラと輝くサテンのボンバー ジャケットだ。いかにも少女らしく無頓着に着たジャケットは、ブルーのアイシャドウ、艶やかなレッドの口紅、マニキュアを塗った爪とよく似合う。「サウンド」の扉をくぐったクリスチーネに、ようやく、自分のやりたいようにできる世界が待っている。

    警察に追われ、友達と一緒に人気の絶えたクーダム エックのショッピングモールを懸命に走る夜の場面で、このサテン ボンバーがもう一度登場する。点滅する緑色の蛍光灯に照らされ、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)の「ヒーローズ ~英雄夢語り~」が鳴り響く中、全速力で走り、互いにぶつかっては派手に床に転倒するシーンには、10代の若者たちの純粋な恍惚がある。通路の角を曲がる度、クリスチーネのジャケットが淡い光を反射する。片手には例のプラスチックの袋、もう片手には夢中になっている恋人の手。彼は、優しくて、ヘロイン中毒で、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(Rainer Werner Fassbinder)の『Fox and His Friends(邦題:自由の代償)』の主人公みたいな服を着る、若きハスラーだ。理想化された青春映画でお馴染みのように、焦点を結んだりぼやけたりする浮世を見つめながら、クリスチーネとその仲間は眠ることなく夜明けを迎える。

    朝になり、クリスチーネは家へ帰る列車を待って、クアフュルステンダム駅に立っている。ちょうど、駅の壁にボウイのコンサートのポスターが貼られていく。それを目にして、まるで体の内側に灯りがともったような微笑みが、そっとクリスチーネの顔をよぎる。母がチケットを買ってくれることをうすうす察したのだろうか? それともショーの後、車のバックシートで、無防備な、だけど止むに止まれぬ好奇心から初めてヘロインを吸引することを予知したのか? その瞬間、子供と大人を隔てる空間が瓦解することを? クリスチーネに未来が見えたはずはない。

    Hillary Westonは、クライテリオン コレクションの常勤ライターであり、ソーシャル メディア ディレクターである。『Film Quarterly』、『BOMB』、『Interview』、『The Brooklyn Rail』、『BlackBook』に記事を執筆している

    モデル着用アイテム:カーディガン(Gucci)

    『A Walk to Remember』 (2002年)、ピンクのカーディガン

    性格的な特徴一言で言うと、「クリスチャン」 ─ そんな10代の少女を主役にする場合、衣装には微妙なバランスが要求される。一方に傾き過ぎると誇張になり、もう一方に傾くとホラーになる。2002年の『A Walk to Remember(邦題:ウォーク トゥ リメンバー)』は – 同じくマンディ・ムーア(Mandy Moore)が同じくクリスチャン役を演じた『Saved!(邦題:セイブド!)』と並び – 私がこれまでに観た中で、神を信仰する10代の少女がいちばん現実的な服で登場した映画だ。スクリーンに映し出されたあのスタイルが私にとって意味があるかどうか、それはわからない。だが、青春時代に聖書クイズ王決定戦なるものに参加した経験者として、正確な描写であることは断言できる。

    ムーア演じるジェイミー・サリバンが着るのは、くるぶしまで隠れる長さのオーバーオール、オーバーサイズなコーデュロイのジャケット、花柄のブラウスだ。ひとつひとつは、2019年の今現在ならインスタグラムで転売できるビンテージだが、全部を組み合わせて着るジェイミーは、とてつもなく時代遅れに見える。特にジェイミーが1枚しか持っていないグリーンの暑苦しいカーディガンは、学校の人気者グループが投げつける辛辣な侮辱の的だ。「いつも同じカーディガンだな」とか「そのカーディガン、素敵ね」と皮肉られたかと思えば、着ていないと「あのカーディガン、どうしたの?」と訊かれる。

    だが、ジェイミーはそんなコメントをまったく意に介さない。奇妙なほど自信に溢れたオーラが、質素なスタイルを圧倒している。自分を変えなくても、不良のランドンが恋に落ちる。それどころか彼は、ジェイミーの家を訪ねて、一時の気紛れではないことを証明するのだ。2枚目のカーディガンで…。

    ありきたりなデパートの袋を手渡し、「君にプレゼント」とだけ言ってランドンは帰っていくのだが、袋の中に入っていたのは、まさにジェイミー好みのカーディガンだ。オーバーサイズで、平凡で、だけどベイビーピンクの少しだけ軽やかなカーディガン。ジェイミーの父は男の魂胆と神の考え給うことを諭すが、ジェイミーは「パパ、ただのカーディガンよ」と受け流し、それを着ていった初めてのデートで初キスを交わす。

    ニコラス・スパークス(Nicholas Sparks)の小説を基にした映画に大袈裟な解釈を与える気はないが、ケーブル放送でカーディガンのシーンが流れる度、私の心臓は鼓動を止める。おそらく、生まれて初めて誰かに見つめられたときの気持ちを、あのカーディガンが完璧に象徴しているからかもしれない。誰かの関心を引くために自分を変えなくてはならない、という感覚ではない。あるがままの自分で誰かに愛されるという、もっと恐ろしい気づきだ。

    Gabby Nooneはブルックリンを拠点とするライター。現在、初のヤングアダルト向け小説を執筆中である

    モデル着用アイテム:タンク トップ(Maryam Nassir Zadeh)

    『Smooth Talk』 (1985年)、勝負トップス

    80年代の映画では、ふたつのジャンルで、ティーンエイジャーの少女たちが主人公に選ばれることが多かった。子供から大人へと旅立つ成長のストーリー、そして家庭の中へ邪悪なものが侵入してくるスリラーだ。『Smooth Talk(邦題:スムース トーク)』(1985年)は、両方のコンセプトの狭間でサスペンスを盛り上げる。このジョイス・チョプラ(Joyce Chopra)作品は過小な評価しか与えられていないものの、駆け出し当時のローラ・ダーン(Laura Dern)が主役コニーを演じ、永遠に続くような夏の日々と10代の少女の期待が、女性監督のレンズを通して見事に描かれている。コニーは、そわそわと落ち着きがない。彼女の時間は願望に費やされている。両親の束縛から解放されることを願い、異性との出会いを願い、ショッピングに出かけることを願う。いちばん素敵なアクセサリーをつけて繰り出し、友達と一緒に少年たちの品定めをするショッピング モールは、コニーの聖域だ。少女の一団は過剰に飾り立てられたな空間へなだれ込み、「チェック!」と歓声を上げる。

    その他大勢のティーンと同じく、コニーも「チェック」されることを待ち望んでいる。友達とみつけた「フランクス」は、ネオンが光り、年上の少年たちがたむろしているハンバーガー ショップ、つまり、しっかり視線を引き寄せる服が要求される場所だ。コニーが選んだ勝負服は、光沢のあるホワイトのクロップ トップス。胸元にピンクとブルーのアクセントがあって、フロントは紐が交差するコルセット風、バックはホルター タイのデザインだ。コニーは、自分だけの部屋で、鏡を前にポーズをとってみる。トップスの具合を調整し、自分の姿をチェックする。頭の中の独り言が聞こえてくるようだ – 私、どう見えるかな? トップスのファブリックには、可能性に満ちた世界が縫い込まれている。

    初めて「フランクス」へ入ったとき、コニーのトップスはオーバーサイズなベースボール シャツの下に隠れている。だがすぐに濡らしてしまって、脱がざるをえない羽目になる。2度目に「フランクス」へ行ったときも、同じホルター トップスだ。おそらく、曲がりなりにも異性に向けて媚びを放射できる手持ちの服は、それしかないからだろう。私は彼女を守ってあげたくなる。新しい大胆な服を着てみたい、それで新しい自分を表現したいという衝動には、覚えがある。その結果コニーは、「フランクス」でアーノルド・フレンドと名乗る得体の知れない行きずりの男に目をつけられ、つきまとわれることになるのだ。ゆっくりと燃焼しながら恐怖へと下降していく成り行きを勝負トップスのせいにするのは、安易な男社会の視点だ。コニーは大人になりたがっているし、セクシーに見えたいと思ってはいるが、「与えてほしい」わけではない。コニーがあのトップスを着る場面は、精一杯めかして、どこへも行くあてもなく – あるいはおそらく、どこへでも行けるつもりで – 鏡に自分を映した私自身の記憶のすべてを蘇らせる。

    Abbey Benderはニューヨーク在住のライター。『The Washington Post』、『The Village Voice』、『Nylon』、その他に署名入りの記事を執筆している

    モデル着用アイテム:ジャケット(Gucci)

    『Out of the Blue』 (1980年)、デニム ジャケット

    1977年8月16日、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)が死んだ。リンダ・マンズ(Linda Manz)演じるシービーは、家の庭にある温室の中で、エルヴィスの死を悼んでいる。デニス・ホッパー(Dennis Hopper) – ちなみに、成り行きから同作の監督も兼任 – 演じるアルコール依存症の父親は、服役中。シービーにとって、唯一心酔する男性はザ キングしか残されていなかったのに…。

    その彼さえも、いなくなってしまった。

    シービーは、何かというと、パンクのスローガンを口にする。「ディスコなんて最低」、「ヒッピーは皆殺し」、「ぶっ壊せ」、「『普通』なんかクソくらえ」。背中にエルヴィスの名前を刺繍した、ブルーのデニム ジャケットもお気に入りだ。エルヴィスが残した曲の中には「ロンリー」、「ロンサム」、「アローン」など、孤独を表す言葉を使ったものが17曲以上あるのだが、シービーも孤独だ。母親はヤク中だし、父親は暴力的なアル中。そこで意味もわからない言葉にしがみつき、それらの言葉でやみくもに自分自身の輪郭を描こうとする。

    エルヴィスは、双子の兄ジェシー(Jesse)が死産した30分後に生まれた。分身を失った双子は、一生を通じて深い虚しさを感じるという。エルヴィスの伝記には、生まれる前にすでに失われてしまった兄の存在をエルヴィスはいつまでも探し求めた、と書かれているものが1冊ならずある。自分が何者であるかはまだわからない、だけど、自分がどうなりたいかだけはわかる。だから、外側の世界から、自分と関連していそうなものを探り出す。シービーにとって、デニムのジャケットは何も書かれていないキャンバスだ。その上に、崇拝や思い出の形見やバッジやワッペンをつけ、まるで家族を作るように集めたイメージ、言葉、文章で、自分の世界を描く。

    Olivia WhittickはSSENSEのライター、エディターであり、『Editorial Magazine』のマネージング エディターも務める

    モデル着用アイテム:ドレス(Giu Giu)

    『Whatever』 (1998年)、ニットのドレス

    スーザン・スクーグ(Susan Skoog)の1998年作品『Whatever(邦題:初恋/アンナの場合)』は、もっと評価されるべき名作だ。ライザ・ウェイル(Liza Weil)が演じる主人公のアンナ・ストッカードは、かつての私と同じ格好で登場する。着てるものといったら、「ダサい」とすら呼べない、単にひどい代物。成長の痛みを露呈する見苦しさだ。

    母や弟と一緒にニュージャージーで暮らす、ティーンエイジャーのアンナはすでに幻滅を知っている。ハイスクールを卒業したら、ニューヨークへ行って、アート スクールとして有名なクーパー ユニオンで勉強するのが目標だ。学校の人気者である親友ブレンダにくっついて、パーティへ行き、処女を捨てたいと思っている。だが、アンナの服はパッとしない。ほとんど悲劇的なレベルだ。よれよれのTシャツに、サイズの合わないジーンズ…それが、私にはとても愛おしい。私も見栄えのしない少女だった。アンナは何を着てもその上にグレーのフーディを着てしまうのだが、私も同じようなフーディを持っていたことは、ほぼ確かだ。打算的な目的で不倫している彼女の母親さえ、意見する。「もう少し、どうにかしたら? 見かけをちゃんとするのは大事なことよ」。まさに大変身を遂げるにはうってつけのキャラクターなのだが、ここで台本は風向きを変える。さなぎが蝶になるかと期待されるシーンで、学校のトイレにこもったアンナは、パープルのアイシャドーを塗りたくっている。ところが両方の瞼を終える前に喫煙がバレてしまい、その日は授業が終わるまで、片眼だけ青タンのような姿で過ごす羽目になるのだ。

    もっと後に、違う種類の変身がある。アンナとブレンダが学校をずる休みして、アンナの憧れの学校を見にニューヨークへ行くシーンだ。アンナはいつもの色褪せたような服を着てはいない。垢ぬけたマンハッタンにふさわしく、と選んだのはレッドとピンクのストライプ、長袖、タートルネックのニット ドレス。醜いアヒルの子が白鳥に変身を遂げたとは言い難いが、確かにこれまででいちばん素敵に見える。そんなアンナの気合いは、私がカレッジへ行くためにニューヨークへ引っ越したときを思い出させる。大都会の水準に合った格好をしようと努力して、だけど成功しなかった。相変わらず、着古したグレーのフーディを命綱のごとく手放さなかったとはいえ、「ガブリエラ」というセクシーな名前を名乗ったその日1日、マンハッタン用のドレスは空想上の素晴らしい自分になる自由を与えてくれた。子供から大人になる段階は往々にして、方法を手探りしながら、それまでの自分をなりたい自分の表現に変えていくプロセスだ。アンナはその道程を体現している。だけどいつの日か、アンナもいっぱしのニューヨーカーになるはずだ。実体験から、私はそう確信する。

    Kristen Yoonsoo Kimは、韓国生まれ、ニューヨーク在住のライター。『GQ』、『Pitchfork』、『The Village Voice』に記事を執筆している

    モデル着用アイテム:T シャツ(Missoni)

    『A Nos Amours』 (1983年)、ストライプのTシャツ

    夏が来ると、当然、モーリス・ピアラ(Maurice Pialat)のドライな名作『À Nos Amours(邦題:愛の記念に)』で主人公のスザンヌを演じた、サンドリーヌ・ボネール(Sandrine Bonnaire)の演技を思い出す。全編を通じて一貫したテーマの中心を占める10代の少女は、ふんだんに陽光を浴び、そして本気だ。男友達や恋人に対しては、とてつもなく上手に退屈や無感動を見せかける。家族に対しては、もっとも陰鬱なときにさえ、クールに、いっそ世慣れたふうに立ち直って見せる。どんな体験でも、フランスのティーンエイジャーに特有の「そんなこと、今更何でもない」ことにしてしまう。友人たちは、飲酒や喫煙、ダンス、陳腐な言葉で欲望を語るといった、若者らしい他愛もない放縦な行為で満足しているようだが、スザンヌは違う。セックスこそ自分の使命と思い定めている。性行為の達成あるいは追求が、自分を確立するための手段だ。それはひとえに彼女の権利なのだ。ピアラの描写は美しく、かつ痛々しく、ひたと見据えるボネールの凝視に語らせる。彼女のボディ ランゲージも雄弁だ。寄りかかり、声を立てて笑い、微笑み、肩越しに見遣るときに漂う独立心が、子供から大人へ移行するヒロインが仕掛けがちな罠とは無関係な人物像を作り出している。コスチュームも同様だ。オーバーサイズなピンクのTシャツであれ、セクシーなワンショルダーであれ、あるいはハウス パーティでふざけながらスパゲティを食べるシーンのレインボー セーターであれ、自由な精神を感じさせたストライプは、特に多くの人の記憶に刻まれた。のみならず、実は再現までされている。ノア・バームバック(Noah Baumbach)はピアラに敬意を表して、『The Meyerowitz Stories(邦題:マイヤーウィッツ家の人々)』(2017年)で、グレイス・ヴァン・パタン(Grace Van Patten)が演じたキャラクターにスザンヌと同じ服を着せた。ピンクのストライプのTシャツと、それに合わせたピンクのミニ スカートだ。オマージュに気づいた人にとっては、スクリーンでイースターの卵を見つけた興奮以上の意味があった。それはスザンヌと彼女の選択がシンプルなストライプの形で尊重されたことであり、そんなストライプが夏を連想させ、 喪失されつつある無垢を覆い隠しうることへの驚きだ。

    Durga Chew-Boseは、SSENSEのマネージング エディターである

    モデル着用アイテム:シャツ(Thom Browne)

    『All I Wanna Do (Strike!)』 (1998年)、ホワイト ドレス シャツ

    1998年の夏、私たち家族は引っ越しをした。だから私は、前の家のベッドルームの壁に貼り付けていた、雑誌から切り抜いて作ったコラージュを再現すべく、8月を丸ごとひと月それに費やした。毎日を、同じプラットフォームのサンダルと裾の広がった同じジーンズで過ごした。近くのショッピング モールに何本もの映画を同時上映するタイプの映画館がオープンしたときは、子守りで稼ぐ小遣いが頼りのプレティーンを目当てに、入場料一律1ドルというプロモーションが提供されたことがあった。私は1ドル硬貨ばかりの財布を握りしめて、1週間のうちに同じ映画を4回観た。そう、お気づきの通り、私は変化を好まない。

    4回通った映画は、カナダで『Strike!』のタイトルで封切られ、数週間後、アメリカでは『All I Wanna Do(邦題:ガールズ ルール! 100%おんなのこ主義)』とタイトルを変えて公開された。キルステン・ダンスト(Kirsten Dunst)、ギャビー・ホフマン(Gabby Hoffman)、モニカ・キーナ(Monica Keena)、メリット・ウェヴァー(Merritt Wever)、ヘザー・マタラッツォ(Heather Matarazzo)が演じる女子校の裕福な家庭の子女5人が、策略をめぐらして、近隣の男子校との合併を阻止するというお話。

    ほとんどの場面は、ボタンダウンのホワイトのシャツとクリムゾンのブレザーもしくはタンのセーター、という制服姿だ。自己主張が強く、口が達者で、グループのリーダー的存在のヴェリーナ・フォン・ステファン(キルステン・ダンスト)は、毎日決まって、ホワイトのシャツを着ている。制服を着なくてもいい週末でさえ、ホワイトのドレス シャツにLevi’sのダーク デニムのロング ショーツだ。髪をサイドのポニーテールにまとめて、澄ました笑顔をえくぼで締めくくる。

    さほど政治感覚の鋭敏な映画ではない。子供向けの映画にふさわしく、1960年代のフェミニズムに関するリベラルな解釈や自己中心の連帯の描かれ方は、緩やかだ。今振り返ると、何よりも子供でいたくなかった子供の私が、この映画に入れ込んだ理由は明らかだ。スクリーン上の少女たちが自分たちを大袈裟に考えたのと同じ程度に、私は彼女たちを大袈裟に受け止めたのだ。それに当時の私は、両親や教師たちの言いなりだと思っていたし、変化にもまれながらも自由を渇望していたし、同じであることは服従とほぼ同義だと考えていた。昨晩、私は聴衆の前で話さなくてはならず、その不安が選んだ服に反映していた。今朝の私は、床に脱ぎ捨てたボタンダウンのホワイトのシャツを拾い上げている。ホワイトのボタンダウン シャツ以外のものを着るつもりはなかったから。

    Haley Mlotekは『The New York Times Magazine』、『ELLE』、『The Globe and Mail』、『Hazlitt』、その他多数に執筆している。現在、ロマンスと離婚をテーマにした作品を執筆中

    『Rebel Without a Cause』 (1955年)、何もかもレッド

    タイトルの画面からして、スクリーンいっぱいにレッドが燃え立つ。記憶に焼き付いているジェイムズ・ディーン(James Dean)のウィンドブレーカーもレッドだし、ナタリー・ウッド(Natalie Wood)の唇も鮮やかなレッドだ。1955年の当時、ウッドは16歳。チャイルド スターから脱皮したばかりで、本格的な役を演じるのはこれが初めてだった。似たような年齢のときに私は近所のビデオ店で『Rebel Without a Cause(邦題:理由なき反抗)』を見つけ、奇妙なリズム感、幼いアウトロー意識、そして特にディーンの恋人ジュディを演じたナタリー・ウッドにすっかり魅せられてしまった。

    ジュディが最初に登場するのは、警察署で取り乱して涙にくれるシーンだ。キャンディ アップル レッドのコーディネートは、やりすぎ感が漂う。ウールのコートも、その下のドレスも、仰々しい首元のリボンだけでなく、口紅もまったく同じ色調のレッドなのだから。上から下まできっちりとお洒落した彼女は、テクニカラーのスクリーンで、異常なほど輝いて見える。まさに「女であること」を放射している。警官が夜の通りをさまよっていた理由を尋ねると、「パパが私の顔をつかんだの」と、すすり泣きながら訴える。「それから、口紅をこすって落とそうとし始めた。唇ごと無くなるんじゃないかと思ったわ」

    ジュディの父は娘が女らしさを増していくことに我慢できなかったようだが、私の目はスクリーンに釘付けになった。学校へ行くときのジュディは、もっと控え目だ。髪はおとなしくまとめてあるし、セーターはハイネック、スカートはミディ丈で、色も控え目なグリーンや退屈なベイビー ピンク。だが、レッドの口紅だけは変わらない。

    私の祖母は、40年代に若き日を過ごし、良質なレッドの効果をきちんと理解している女性だ。そんな祖母が、ある日、何気なく1本の口紅をくれた。溝を刻んだゴールドのケースのEstée Lauderは、重量感があり、とてつもなく優雅だった。ブルーをベースにした深みのあるレッドを唇につけてみると、私のほぼブラックの髪とオリーブの肌が瞬く間に変容した。突如として、私の容貌は、左右のバランスがとれ、魅力的になった。控え目な魅力に違いないものを発散し、小さな町のハイスクールでAbercrombieブランドを着ている人たちとのあいだに明確な一線を引いたと思った。『Rebel Without a Cause』はティーンエイジャーの芝居じみた自尊心を凝視し、なおかつ決して軽蔑しない。今考えると、観終わった後の私が、新しい人間になったように尊大な自信を持ったのも当然だ。どうやら私もそうであったように、ジュディとジュディの世代にとっては、ウィンドブレーカーの赤いファスナーとか口紅の色とか、些細なことが世界を揺るがすほど決定的に重要なのだ。

    Christina Newlandは、映画、ポップ カルチャー、ボクシングに関するライター。『Sight & Sound』、『VICE』、『Hazlitt,』、その他に記事を執筆している

    • 文: Abbey Bender、Durga Chew-Bose、Simran Hans、Kristen Yoonsoo Kim、Haley Mlotek、Christina Newland、Gabby Noone、Hillary Weston、Olivia Whittick
    • 翻訳: Yoriko Inoue