ジア・トレンティーノはすべてを輝かせる

『New Yorker』誌の常勤ライター、ジア・トレンティーノによる初のエッセイ集は、最高に美しい方法で読者の考えを打ち砕く

  • インタビュー: Haley Mlotek
  • 写真: Andrew Jacobs

「何かを書いて、人の逆鱗に触れたのは、久しぶりだわ」と、ジア・トレンティーノ(Jia Tolentino)は、この間、私に言った。私たちは、ブルックリンにある彼女のアパートメントで、腰掛けて話している。その間、彼女の手に負えない愛犬ルナは、私たちの関心を引こうと果敢に試みては失敗する。ジアは、この得体の知れない大型犬は、セントバーナードとチワワの混血ではないかと考えている。「ここしばらく、炎上するようなことをうっかり書いたり出版したりすることはなかった」と彼女は言う。「私は丸くなったから。ロサンゼルスに引っ越した人たちみたいに。私の場合、ネットでの発言において、って意味だけど」

ロサンゼルスに住んでいる人たちには悪いが、私には彼女の言わんとすることがわかる。そして、あなたがロサンゼルスの住民なら、彼女が何を言っているのか、よくわかるはずだ。私がジアに会ったのは5年前、ともにニューヨークに移ってきて一緒に仕事する期間があった。そのとき、初めてジア流の対話の洗礼を受けた。クールで好奇心旺盛、早口で予測不能。次に何が口からついて出てくるかわからないが、ひと言ひと言が重力のように心に響く。彼女の考えに耳を傾けていると、それが良いのか悪いのかということは大して重要なことではなくなる。ものごとの真相を究明することが彼女の求めていることであり、その答えを導き出すために彼女はいつもこう訊く。「それって、どういう意味?」

今回、初めての本を上梓するにあたり、ジアはまさにこの質問を自問自答してきた。『Trick Mirror: Reflections on Self-Delusion―だまし鏡:自己欺瞞に関する考察』は、9編のエッセイで構成されている。真実と美、結束と道徳性、小説に出てくるヒロインたちやポップスター、精神的な高揚感と薬による高揚感、彼女の愛するものと愛犬ルナ…ジアの心を捉えて離さないこれらのテーマを題材とした、彼女にしか書けない文章だ。

ジアの文章は、まるで指で気泡をはじけくように、瞬時に読者の琴線に触れる。彼女は女性向けサイト「The Hairpin」の寄稿編集者として、音楽、美、パワー、ポップソングについて書き、フェミニスト サイト「Jezebel」の副編集長としては、青春と成熟、ジェンダーと女性らしさ、超越と多義性について書いてきた。現在は、『New Yorker』誌の常勤ライターを務め、思考の対象はあらゆる分野に及ぶ。電子たばこ、中国の古典舞踊を披露する団体「神韻」、アスレジャーブランドのOutdoor Voices、日々のスキンケア、古代ローマの詩人、オウィディウスの作品、映画『わたしが美しくなった100の秘密』、カーリー・レイ・ジェプセン(Carly Rae Jepsen)の音楽、それから完全にばかげたミームなど。

Jia 着用アイテム:セーター(Givenchy) 冒頭の画像のアイテム:ブレザー(Gucci)トラウザーズ(Gucci)

ジアの文章について考えるとき、私はまず彼女のインタビュー スタイルを思い浮かべる。彼女は、これまで幅広い人びとに関心を向けてきた。例えば、妊娠後期の中絶手術を行う医師とそうした医療が必要な女性たち。「The Hairpin」での長期連載「Interview With a Virgin」で取り上げた人たち。あるいは、「Jezebel」では、イルカとセックスをすることに性衝動を持つ男性をインタビューして、ちょっとした話題になった。ジアのインタビューは、彼女の執筆スタイルを如実に表している。それは、彼女が、インタビュー相手に対して、好奇心を示しながらも敬意を忘れないのみならず、相手の考えを言葉にする過程で、そのひとつひとつに小さな奇跡を起こしているからに他ならない。

本書の出版前に寄せた推薦文で、ゼイディー・スミス(Zadie Smith)は、この本によって希望で満たされたと述べ、パトリシア・ロックウッド(Patricia Lockwood)は、ジアの文章で使われている散文体にある種の安らぎを感じると言った。しかし、読者は『Trick Mirror』から何を感じるだろうか? 私と言えば、自分が心を動かされた箇所に驚かされた。例えば、リアリティ番組に出演し、ホット マヨネーズの大食い大会に参加することになった話で自分が泣くなんて思ってもみなかった。ジアの想定通り、この本には読者の感情をかき乱すテーマがいくつかある。彼女の豊な表現力と歯に衣着せぬ批評が合わさり、読者の心を傷つけることもあるだろう。心がえぐられるのを自覚するということは、思いがけず痛いところをつかれ、自分が思っていたよりもデリケートだったということの証左なのかもしれない。あるいは、ジアと同じ視点から世界を体感するには、読者の方も、世の中に対する感じ方を変える必要があるのかもしれない。かくいう私も、ちゃんとわかっているとは言い難いのだが。その代わり、私は、ものごとの根底にある意味や欺瞞、書くことや読むこと、資本主義や美といったことについて、彼女に訊いた。ジアは、逆に私に質問したくてたまらないようで、始終問いを投げかけてきた。私は、可能な限り真摯にそれらに答えることを試みたうえで、会話が脱線する前の話題に立ち戻るようにした。

ヘイリー・ムロテック(Haley Mlotek)

ジア・トレンティーノ(Jia Tolentino)

『Trick Mirror』のエッセイは、あなたがここ数年間で書いてきた論考やテーマを数多く扱っていて、ある意味、伏線的な役割を果たしている。全く同じテーマに立ち戻っているわけではないけれど、いくつか同一の概念について再考しているわね。

エッセイを書いているときは、ひとつのことについて書いているんだけど、本質的には他のことについて書いていて、「本当に本質的」には、また別のことについて書いている気がする。ものごとが持つ「本当に本質的」な意味については、私なりに一定の括りがあって、表面上のテーマが何であれ、その次元まで到達できるよう、繰り返し同じテーマに立ち戻るの。いくつかのエッセイは『New Yorker』誌のために書いた作品に端を発しているわ。その半分は、すでに本のためのエッセイという前提で書いていたんだけど、何かの折りに、「この同じテーマについて、もう半年も考えているじゃない」ってふと気づくわけ。私が書くものは全て、私の思考からきているものなの。

初めて出版する本がエッセイ集になったのは、なぜ?

心配だったから、エッセイという形にしたんだと思う。私はいつも、ものごとを意識しすぎて、穿った見方をしているじゃないかって、心配になるの。いちばんパーソナルな、恍惚の体験については、特にそう。「私がこれまでずっと取り組んできた、神性、超越性、欲望に対するものすごく個人的なかけひきを公にしてしまうことで、自分の中にある好奇心を冒涜しているじゃないかしら」って思った。でも、そのことを本に書いてみて思ったの。「そんなことはけっしてない。ことの本質を解明するには、まだ程遠い」ってね。きっと私は、永遠にそれが何なのかを解明しようとするはずよ。この本には、自分の中で問いかけの流れをつかもうと、本当に真摯に向き合った18ヶ月が収められていると思う。私は結局何もわかっていなかった、ということに気づいて、なんだかホッとしたわ。

この本を書き終えて、今はちょっと心が空っぽになっているの。完全に空っぽではないけど、色々なことに考えを巡らせてきたことが本になった今、そういうことについて考える場が今はないの。一生懸命に何かを解明しようと必死になれたのは、充実した経験だった。それがこの本を書いていて、楽しくも苦しいことのひとつだったわ。

自分の文章については、まだ全然満足していない点が、いくつかあるわ。私は、議論して明らかにすべきものがあるという考えに対して、満足できていない。単なる議論を超えた次元の対話ってあると思うから。私が今、フィクションを書けない理由のひとつがそれね。私の思考回路は今、議論モードになっているの。でも、フィクションは、そういうことが目的じゃないから。

あなたはそうすることで、今この瞬間に、貢献しているかもしれないわね。そして、運が良ければ、またそこに戻ることもできる。『Trick Mirror』を読んでいて、私はあなたのエッセイが、議論を吹っ掛けているような印象は受けなかった。とても説得力があって、哲学的だと思ったわ。

私の本から、読者に何を感じて欲しいかと聞かれるけど、特にありません、って私は答えるの。全く何もないって意味じゃなくて、たぶん私の頭の中ではそう発言することで、自分本来の強引な論争気質を修正しようとしているのよ。

Jia 着用アイテム:ドレス(Prada)

そうね。タイトルの意味は、ひとつの考察にはその真逆の考察もあって、どちらの考えも等しく真実である、ということよね。

そう。この本で書いたことのひとつは、私は、自分自身についての考察はたぶん間違っている、と常に心のどこかで思っている、ということなの。例えば、私は自分のことをのんびり屋だと思っている。それは実際は全く違っているかもしれない…どうかしら。

(しばしの沈黙)

私はこの1年半の間、ずっとこんなテンパった状態だったのよ!

あなたのエッセイには、全体を貫く共通項があるか、聞いてみたかったの。読んでいると、どれも「過ぎたるは及ばざるがごとし」という考えを軸にしているような気がしたんだけど。

たぶん、そうね。私はすぐ喜んだり満足する方で、どちらかと言うと、何でもやりすぎるくせがあるから。

私の解釈では、あなたのエッセイは互いに呼応していると思う。例えば、宗教的な高揚感と恍惚感についてのエッセイから「The Story of a Generation in Seven Scams―7つの欺瞞を体験したある世代の話」のエッセイへと展開しているように。ジャンヌ・ダルク(Joan of Arc)のように、その時代では異端であっても後々の時代では殉難者として知られるような人たちへの言及がある。私は読みながら、この本自体に仕掛けられた「trick mirror―だまし鏡」って、あらゆる詐欺師は誰かにとっての預言者であり、逆に、あらゆる預言者はまた別の誰かにとっての詐欺師ということなんじゃないかな、って思ったわ。

え、すごいわね。えーと、ヘイリー…。

それがあなたの考えていたこと?

いえ、全然そうじゃなかった。でも…意識せずとも、そう思っていたに違いないわ。

リアリティ番組に出たことについてのエッセイの中で、あなたは自分自身について、こう書いている。自分のストーリーを緻密に組み立てるけど、計算高くはない、と。

ストーリーを考えていないと言ったら嘘になる。でも、私は、そういう思考を、意図的な考えがあってするわけじゃないわ。もしあなたがそれを今言わなかったとしたら、気づくのに2年くらいかかっていたでしょうね。私にとって書くことの動機は、ひとつには、それによって後々ものごとを理解できるようになるから。自分のために手がかりを残しているの。でも、特にリアリティ番組のエッセイを書いたおかげで、私は自分自身について、たくさんのことが理解できるようになった。これまでは、なぜが私にばかり奇妙なことが起こるって思っていた。でも、今は、自分で招いているんだって思えるようになった。私はそうした強烈で不思議な体験をするべくしてした人間であって、私だからこそ体験できた、って思っているわ。

エッセイ集の中で、「Ecstasy―エクスタシー」が、いちばんパーソナルな話だって言っていたわね。

子どもの頃からの知り合いが、あれを読むことに、少しドキドキしているの。私は人に対して、意地悪しないよう、いつも気をつけているから。だから、結構な部分を割愛した。ただ、子どもの頃から一緒に育った周りの人たちの政治信念が、「増税反対」と「戦争は無条件で正しい」のふたつに要約されるって、私からすればすごく辛辣な描写だけど、彼らにしてみれば「そうだよ、当たり前じゃん」って感じなのよね。自分でも、そのことをつい忘れてしまうんだけど。

的確な描写は、批判しているように見えるという、言葉が持つ倫理性のひとつでもあるわね。ただ、批判は、その発言に対して私たちが抱く感情の範疇でのみ存在するわけなんだけど。

それにしても、不思議だわ。だって私がいちばんパーソナルだと思ったエッセイは「Reality TV Me―リアリティ番組の私」だったから。注目されるにふさわしい人間にならないといけない…あなたがどれだけそう思い込んでいたかについて書かれている。自分が望んでいると信じ込んでいるものによって崩壊していく女性、現代のボヴァリー夫人的女性だわ。一方で、人から注目されることこそが、品位を保つための最高の形であると説いたシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)の影響もある。人に注目されることは、破壊的であると同時に超越的でもあり、個人的であり、緊張感を伴うもののようにも見える。

思うに、私の考える「毒」は、人が内心で思っているのとは別のふりをするときにはじめて生まれるのかもしれない。たとえば、注目されたいという欲求を、あたかも別なものであるかのように見せかけるみたいに…。私自身も、女性らしくあるだけではなくて、クールでいようとした。つまり、明らかに人の視線を気にしていたし、今も気にしているのに、まるで関心がないような素振りをしてたの。そうやって自分の中に何か壁を作っていた。シモーヌ・ヴェイユの言う、注目がもたらす性質とは違うわ。「毒」は、その注目が近代化された結果、生まれたもの。彼女が言っていた注目は、自発的で、物理的で、人対人だった。今日あるシステムは、ただそれを人工的に増やす方法なだけよ。最近、SNSを1か月間使わないようにした時期に、このことについて考えたの。でも、それで気づいたのは、世間が自分の仕事に対して向ける関心と、友達が私に向ける関心は、別々であるべきってことだった。

『Trick Mirror』には、女性の作品を読むこと、そして女性のためのサイトの運営に対する期待が表れている。読者はそういった本から何かを学ぶ、もしくは何かを感じ取ることが期待されていると、先程あなたが言ってたのと同じように、女性が運営する媒体についても、似たような暗黙の了解があると思うわ。おそらく読者側だけにではなく、編集部側にも。

女性による媒体が何であるか、そしてどうあるべきかという編集理念があり、読者には読者なりの信念がある。でも、それらは、女性のオンライン メディアが世間に知られるようになったシステム、つまりソーシャルメディアによる拡散によって歪められてしまっていると思う。結局のところ、全てがひとつの問いに帰結するのよ。私は良き存在なのか、 悪しき存在なのか? それはフェミニスト的なのか、否か?ってね。 「trick mirror」という表現は、女性のためのサイトに対して女性たちが求めているものが、実は私たちが自分に対して求めるべきだと教え込まれてきたものに他ならない、ということを書いた、2015年のエッセイから来ているの。自分のあら探しをしながら、同時に完璧だと思う能力。当時は、それが自分の活動に対する不安を反映しているとは気づいていなかったわ。私は自分自身を解放するために、自分の思考の欠点ばかりを探そうとしていたの。

同じエッセイの中で、あなたは良き存在か悪しき存在か、という二項対立について書いている。そして、あなたの読むものや仲良くする人は、それを確認する手段になる、と。ある時点で、言葉は、何か別なもの、たとえば倫理的な正当性の根拠になる。トランプ政権にいる女性に対して使われるフェミニスト的な発言が、それのもっとも極端な例ね。女性が権力のある地位に就くことは、たとえそれがどんな女性だろうと、女性全体にとって良いことに違いないという考えよ。

フェミニスト的なメディアが成し遂げたもっとも大きな功績のひとつは、世間がある女性を悪者扱いしてバッシングするとき、大抵それは彼女が何か悪いことをからではない、ということを、明るみに出したことよ。多くの場合、女性が叩かれるのは、家庭の中とか、ある一定の範囲に縛られることなく、ひとりの人間として生きようとしたからなの。でも今では、あまりにも多くの批判が、何の根拠も持たないことに、皆気づき始めている。だから、あまりこういう言い方はしたくないけど、「批判される人=当然正しい」みたいな、ねじれが起きているわ。

少し前に、思いやりのない行為自体は、悪いものではないという話を、私たちはしたわよね。結果として思いやりに欠けた行為になる場合も、あってしかるべきだ、と。悪いのは、思いやりに欠けていたのは正しかったとか、思いやりがないあなたは悪くなかったという正当化だわ。傷つくことが良い場合もある。必ずしもあらゆる気分に、良いとか悪いとかの倫理性を当てはめないといけないという意味じゃない。でも、そういう心がえぐれる経験をすることで、何かが明らかになる。ちなみに、どうしてフェミニズムの欠点について話すことをためらうの?

だって、その…わかるでしょ。

(ぎこちない笑い)

わからない? 理由はいくつかあるわ。私のエッセイのひとつ、「The Cult of Difficult Women―気難しい女性に対する崇拝」は、正当な評価のもと世の中に広く受け入れられた3冊の本について触れているし、辛辣なことはあまり言いたくないの。私は「Jezebel」での編集経験から、間違いを犯すのがいかに簡単か、そして他人に対してあまり寛容でない思考に陥るのがいかに簡単かということもわかっているつもりよ。

何かに対して躊躇するのは良いことだと思う。それを大切なことだと思っているって証拠だから。私がエレン・ウィリス(Ellen Willis)の文章を好きなのは、彼女が偉大なフェミニストでありながら、フェミニズムについて批判的な視点を持っていたから。彼女のエッセイのひとつを、私が今教えているコロンビア大学でのクラスの課題図書にしたの。彼女がセックス・ピストルズ(Sex Pistols)に「萌え」を感じると告白したエッセイなんだけど、彼女はその中で「女性文化を語る多くの人たちは、男性を喜ばせることから、他の女性たちを喜ばせることに、ただ単に方向転換しただけに見えた」と書いている。ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ問題後に起きたフェミニストによる議論は、今のメインストリームの論調と基本的には何も変わらない。それは私が2年前にエッセイを書いた時の社会とは、多くの点で異なっている。でも、意見の不一致は、フェミニズムにとって致命的だという論調がある。意見の相違や足並みが乱れることは、破滅をもたらし、建設的ではない、ってね。でも、そういう考えは、もう通用しないかもしれないわね。

倫理性と言えば、お金は悪だと思う?

思わないわ。どう使うかの問題よ。あなたはどう思うの?

本の中で、お金は、もともと腐敗を招くものだということが、結構書かれている。

それは本当だと思う。もし「お金は、本質的に腐敗を招くものか?」って聞かれたら、答えはイエスよ。誰であろうと、年収100万ドル以上なんて手にするべきじゃないと思うわ。ある一定の基準を超えると、お金はいつも悪いものになる。だけど、ある程度のお金は、あらゆることを左右する重要なもの。お金は、健康、自由、自己決定…すべてに関係している。そして、それらが市場原理と結びつくと腐敗してしまう。私は、そう確信している。

それは、お金が簡単に手に入りすぎるせいかもしれないわね。あるいは、資本という概念そのもののせいかもしれない。資本をもとにお金を稼ぐ才能があって、実際それで稼いでいる人たちはいるけれど、名声の大部分は、お金では買えない価値を持っている。そして、あなたがエッセイで女性のための媒体について書いているように、本来見返りを求めないはずの関係性が、商品化している傾向がある。あなたが本の中で述べている市場原理は、そういった人間関係も、物質的でお金で片づけるものに変えてしまう。

例えそれが、完全に個人対個人の友達関係であっても、そういう側面は、必ずある。資本は全ての人間関係の間に流れているから。友情関係だって、出世とかの手段にならないわけじゃないし。私が感じているのは、本来、良しとされてきたものが、お金を稼ぐ道具に使われているっていう、どちらかという下品な感覚。その人がどちらを優先しているのか、なんとなく、わかるものよ。使命感をもってSNSで活動しているのか、思いつきでやっていて人間関係を育んだり維持しようなんて考えていないか、必ず区別がつくわ。いずれの立場も共存することは可能で、必ずしも片方がもう片方を貶めるわけじゃないけど、一方が本性を出せば、相手がどちらかなのか、すぐにわかるもの。

あるいは、もしかすると、あなたが意識的にSNSについて考えないようにしていると書いたエッセイに、もっと深くかかわっているかもしれない。だって、それは狂気と関係しているから。じゃあ、別の自分を演じる場合、何をもってして正気だと言えるのかしら?

正気は無意識だと思う。ある種の忘我からのみ生まれる、純粋な思考の形。私はそれをいろいろな方法で追求してきたの。宗教によっても引き寄せられたし、ドラッグを通しても惹きつけられた。思考が疲弊するまで執筆することで、それに引き寄せられることもある。ひとりでいる孤独か、愛する人と一緒にいること…そのどちらかに没頭していることで、引き寄せられたりもする。でも、私は、今の社会システムの中でますます手に入れるのが難しくなってきているものを、本当に精一杯、全方位的なアプローチで追い求めているつもりよ。私のやり方は、配慮に欠けるとか、たくさんの問題点をはらんでいる。だから私は、そういうことについて、かなり慎重になっているのかもしれない。そして、だから私はこれだけたくさん執筆しているのかもしれない。あるいは、何かを避けようとしているのかもしれない。あなたは正気って何だと思う?

まあ…。

私は、それ自体が何であるかは答えられないけど、あなたにとって、正気って何だと感じる?

直感的には、コントロールすることって言いそうになったわ。

あなたならコントロールって言うだろうって、思ってた!

そうね…私も自分の深層心理について告白するなら、この答えが私自身について示唆している気がするのは、それは狂気の定義が何であれ、それが常に存在していることを意味するからだと思う。そして、正気の存在意義は、その狂気を抑え込むこと。人は、自分自身について書くとき、それが読む側にどのように受け取られるかを、ある程度コントロールできると思っている。でも、実際はそうじゃない。どれだけ多くの作家が、自分を弁護しているつもりで、実際には最低な醜態をさらけ出しているかを考えてみて。彼らは自分自身で暴露してしまっているのよ。「正気とはコントロール」という考えは、自分が何者であるかを演じるときに、コントロールすることがどういう役割を果たしているのか―そのことに対する私の明確な考えの表れでもあるの。

そして、制御不能なものに対しても、認識が足りないことに対してもね。面白いわね、何故かしら、あなたなら絶対、コントロールって言うだろうって気がしていたのは…。私にとっては忘我で、あなたにとってはコントロール。どちらも、この世界における私たちのあり方を示す基本的な原動力よね。私はずっと忘我の境地で歩き回っているわけではないし、あなたも過剰な支配欲に駆られているわけでもないけど、この問題は、根本的にはその人の美意識にかかわっていて、考え方にまで及んでいる。

私の著書の主題は何なのか…その答えに一番近いものがあるとすれば、この本には活発で強い欲求があるということ。自分と向き合おうとしたり、自分をすごく事細かく分析しようとすると、本当の自分を見失ってしまう。そして、現存するあらゆるシステムが、ひとりひとりのアイデンティティを細かくカテゴリー分けしている。世の中がそんなだから、自分自身のアイデンティティを知るのは、とてつもなく難しい。この本を読むであろうすべての潜在的な読者は、得体のしれない存在で、偽りの姿で生きている。でも同時に、真の自分を見つけたいという欲求は現実にあるわけだし、意味があることだわ。ところで、その髪、美容室でやってもらったの?

根元を染めたの。

いいわね。

ありがとう。それにカラーを調整してもらったから、かなりブロンドっぽくなった。でも、そう、特にフェミニスト的な考えについて言うと、私の政治的思考の多くはフェミニズムに根ざしているけれど、だからと言って、フェミニズムが私の政治的課題の原動力になっているわけじゃないの…わかるかしら。

そうね、いろんな面で、そこがスタート地点だったわよね?

そして、それがいろんな形で表れている。私は何の後を追っていて、何の先を行っているのか…その答えを見つけたいという欲求について、よく考えるわ。

私は、自分が何を考えようと、どこかの誰かがもう既に、何回もそれをやっている、と思っているの。それがフェミニズムについてなら、なおさらそうだわ。私の考えはすべて、もっと純度の高い形で誰かが発表している。例えば、自己最適化について書いたエッセイ「Always Be Optimizing―いつも最適化を」の中で私が言っていることって、どれも『第二の性』に書かれていることだから。

2013年にこのテーマでエッセイを書いたけど、当時私たちは自己監視型経済という意味では、今とは異なる段階にあった。けれど、フェニミズムが、ビジネスとして成り立つために、なりふり構わずあらゆるものに服従したことと、ソーシャルメディアのおかげで世の中に自分たちの考えを知らしめることが、ほぼ自由自在に可能になったという、ふたつのことが、同時に起きた。そう言う場合、普通は、女性の見た目の美しさの問題に偏重しないようブレーキが働くはずなんだけど、美はビジネスになるから、ないがしろにすることも出来ない。それに、この酷い世界をなんとか生き抜くために、あれこれやっている人を、私は責める気にはなれないわ。だから、女性の見た目の美しさの重要性を低くする代わりに、どういう状況下なら、見た目について語ることが許されるかについて、条件を厳しくしたの。どれもこれも、思った以上に、ものすごくコストがかかったわ。

それは、先程、言語について話していたのと同じ種類の倫理性ね。違うのは、この場合、それが身体についての議論だってこと。美しい肌というのは、もはや肌に何を塗って美しくなるかの問題じゃなくて、あなた自身が素晴らしいってことなのよ。

美はかつて品位を示す簡単な方法だったけど、今は美が品位そのものになっている。なぜなら、健康が大切で価値あるものとして位置付けられているから。そして美しさの理念が、極めて健康で、ストレスを抱えてなくて、水をたくさん飲み、完璧な肌を持っていることと、結び付けられているから。なんだか過酷よね。そして、それはフェミニズムが良かれと思って生み出したものだと思うの。フェミニズムの思想は、正しい方法で美しさを保てるなら、女性は美しきあるべき、という考えを捨て切れなかったのよ。

私は、自分で意識して美を愛すると心に決めたし、これからもそれを諦めない気がするわ。

私もよ。私たち、いったい髪にいくらお金をかけているのか、考えてもみてよ。それに、私たちの髪は根元から健康だし!

この信念がいかに歪んでいるかがわかっても、それを追求することをやめていないわ。ずっとそうし続けるかもしれない。だって、人って皆、本能的に見栄っ張りでしょ?

他の人の上を行く見栄っ張りで、上っ面だけの人はいる。でも、それってある意味、人に好かれる若い子につきものでしょ。私は人から誉められることを求めるよう教えられて育ったの。カワイイって言われたかった。今でもそうよ。私の本は、最初から最後まで、こういった知識について書いた本なのかもしれない。信念を変えるための知識が、いかに全然足りていないか…。読者はすべてお見通しなのかもしれないけど、結局どうだっていいの。私はどのみち、こんな話ばっかりしているモンスターよ。だって、 見せかけだけの人間だから!

大人から受け継いで信じ込んだ、もうひとつのヒドい考えは、私のお気に入りの作家たちは、自分を抑えられないから、書かずにはいられない、ということ。作家がどれだけ一生懸命に仕事をしたか、原稿からどれだけ文章を削ったか、あるいは発表を見送ったか、ということにちゃんとした価値を認めていないのよ。作家の仕事を、実際に原稿に書かれた言葉の範囲でしか見ていないから。

書かずにはいられなかったという性質は、私が好きな多くの作家にも見受けられるものよ。ジョーン・ディディオン(Joan Didion)がいい例だけど、美そのものの価値を喚起するということ自体に捉われていた。私は、作家としての彼女を、そう見ている。自分の本心を言う作家というよりもね。その意味で、書くことはコントロールのひとつの形態であると同時に、忘我の形態でもあるのよ。

この本は、自己欺瞞というテーマを中心に書かれている…言うなれば、自己欺瞞をどう定義するか、自己欺瞞の対極にあるものは何か、そして、それをどう定義するか…

自己欺瞞って、自分自身、または自分の居場所について、偽りの考えを心の底から信じていること、じゃないかしら。自己欺瞞の反対は自己尋問だと思う。私がこの本を書いた理由は、間違いなく自己尋問のためだって気づいたの。自己欺瞞の反対は、明瞭かつ謙虚な状態で、今こうして生きているという、とてつもない事実に報いるよう、気持ちを奮い立たせることだと思うわ。

この対話は、明確を期するため、要約および編集したものです

Haley Mlotekは『The New York Times Magazine』、『ELLE』、『The Globe and Mail』、『Hazlitt』、その他多数に執筆している。現在、ロマンスと離婚をテーマにした作品を執筆中

  • インタビュー: Haley Mlotek
  • 写真: Andrew Jacobs
  • スタイリング: Mark Jen Hsu
  • ヘア & メイク: Rei Tajima
  • Date: August 7, 2019